無情なるこの世界

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 まれに催事販売の開店期間と期間の間に、出店のない隙間が生まれることがある。販売仕事はないとはいえ、休みにはならない。会社はどこも人手不足、こんな日は製造の手伝い入れられる。  専門学校も出ていない柚巴の仕事は、ケーキの飾りつけ。ワンカット千円を超えるこの会社のケーキは、果物をこれでもかと盛り付ける。崩れないコツはクリームの硬さ。最初に入った時は、ボウルのかき混ぜ方がなっていないと、随分指導が入った。  今回も生クリームをかき混ぜながら、さて何時に帰れるかと考える。製造の帰宅時間は夜の一時二時をぶっちぎる。終電なぞ間に合わないから家から一時間、自転車をこぐのだ。  疲労でぐでぐでになっていも、無心で腕だけは動かす。とはいえ製造で使うボウルは、家庭用の何倍も大きいから腕が痺れてしまった。生クリームができたら飾り用の果物を何十キロも下の駐車場から運んでくる必要がある。やるのは一人でだ。  今月は何人会社を辞めただろう、毎月の通りなら二、三人といったところか。  柚巴は虚しくなって、ボウルを一旦冷蔵庫に仕舞うと、パティシエ長に休憩を願い出た。    向かった休憩室には先客が何人かいて、テーブルの一つから柚巴に声がかかる。事務員の如月綾(きさらぎあや)だ。  「藤堂さん、酷い隈!」  綾がけらけら笑いながら柚巴の顔を指す。その綾の目の下も黒い。事務員が二人だけのこの会社で、彼女一人で販売、営業、製造の事務を抱え込んでいる。もう一人の事務員、牧泉(まきいずみ)が経理、人事、総務事務担当だ。その泉は事務所だろうか。綾に聞けば、下で特売の手伝いをしていると教えてくれた。  「今日、訳アリ品の特売日なんです。泉さんと俊哉さんが今回の担当。下、騒がしいでしょう?」  この建物は、一階が吹き抜けの駐車場、二階が製造室、三階が事務所になっている。確かに階下から賑やかな声が聞こえてきていた。製造時に出たケーキの切れ端や失敗したものをたまに特売として下の駐車場で販売しているのだが、これが近隣住民に人気で結構客が集まる。今頃下はてんてこまいだろう。いや、密かに俊哉に想いを寄せているらしい泉は喜んでいるかもしれない。  まあ、泉と顔を合わせずに済むなら柚巴としては助かる。彼女は以前、柚巴の交通費の計上を数か月忘れたことがある。「忘れてましたぁ」という軽薄な笑いと、「許してやりなよ」という緊張感のない専務の姿は、未だ柚巴の中で燻っている。  「聞いてください、私この前事務所で拍手を貰いました」  「拍手?」  「半年仕事が続いたお祝いです」  声は明るいが、目が死んでいる。半年前、綾の職務にいたのは他ならぬ柚巴である。そもそも、柚巴の入社時の募集内容が事務職だった。その時は三か月目に拍手を貰ったのだ。そういえばその話を以前、綾にしたことがある。  「私もう辞めたいですって言ったら誤魔化されたので、近々飛ぼうかと思います」  周りに人目があるのに、彼女は気にしない。周りも気にしない。飛ぶ、というのは連絡もなく、突然会社に来なくなることだ。珍しくもない。柚巴にもその気持ちは分かる。一応柚巴だって、専務に今の仕事が辛いと伝えたことはあるのだ。  「それって辞めたいってこと? 困るよ、柚巴ちゃんは販売のエースなんだから」  その時彼にいわれた言葉だ、よくぞ口が回る。  視線を上げれば、休憩所備え付けのホワイトボードが目に入る。今月の予定が書き込まれていて、その中には先日の名古屋出張の件もあった。予定の下にはでかでかと『売上未達!』の文字。    ふと、柚巴の携帯が鳴った。綾に断ってから休憩所を出て電話をとると、相手はカード会社の大木である。驚く柚巴に彼女は言い辛そうに用件を口にした。  「藤堂様は先日名古屋に出張中でしたよね、そこでカードを使われませんでしたか?」  言われた意味がわからなかった。名古屋でそのカード紛失に気付いたのだ、使用するなど不可能である。  「藤堂様がネット明細をご覧になられた時は反映されていなかったのですが、こちらでカードを凍結する前、あの日名古屋の西島ホテルというところで藤堂様のクレジットが使われているのです」  西島ホテル。違う、柚巴の泊まっていたホテルではない。  「カードを不正利用しようとする人間は、傾向としてカードを盗った場所付近で使用することが多いんですね。  ですが今回、使用された形跡が東京から名古屋に飛んでいる。それでもしや藤堂様の元にカードが戻られたのではと」  言葉の後半はかなり尻すぼみだった。柚巴が宿泊したホテル名と、カードが戻っていないことを伝えると、大木はむしろ安心したように「かしこまりました」と応じてくれた。向こうも保険手続きをした後で、厄介事を避けたのかもしれない。  しかし、柚巴は違った。  電話をきると同時に、ざっと頭が冷えた。柚巴が名古屋にいた日に、柚巴のカードを持った者も同じ街にいたのか。  柚巴はすぐに西島ホテルについて携帯で調べた。  場所は柚巴の泊まっていたホテルにそこそこ近い。  冷えた頭に、血が一気に戻ってくる。疲労困憊の脳細胞が久々にフル回転した。  ――ひぅっと彼女の胸が不吉な音を立てた。
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