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木村隼はケーキ販売会社、ウェスタの専務職だ。現在事務所で一人、書類作成中。時折携帯をいじって飼い猫の写真を写し出す。日々の癒しだ。
そういえば社長はどこへ行ったのか。きっとヨットだ。あの人は生粋のヨット好きで、暇を見ては海に出ている。本当は暇などないのに、海に出たらまず帰ってこない。おかげで隼は職務外の仕事もこなす毎日だ。家に帰って愛猫に触りたいのに、すでに寝泊まり三日目。家を出る前、物言いたげだった妻の顔が怖かった。――仕方がないじゃないか、還暦手前で転職もままならない。
むしろ、この会社は前職をリストラされた隼を受け入れてくれたのである、頑張るしかない。
静かな事務室には、隼がキーボードを叩く音だけが響いている。
「みんなは下か?」
この事務所には、社長、専務、事務、営業のデスクがある。しかし今は隼一人だ。
泉と俊哉は下の特売だろう。綾は昼休憩だろうか。電話応対できる人間がいなくなるから、昼は事務所で取ってくれて頼んだのに。
綾は最近反抗的だ。周りを憚らず会社の不平を口にし、なにかにつけ「辞めたい」と訴える。
他にも辞めそうな人間、と考えてこの会社のほぼ全員が当てはまってしまうことに頭を抱えた。自分だってこの先どうなるか。
「いや、いかん」
隼の携帯が震えた。携帯の音は嫌いだ。伝えてくるのは大体がクレームか、「辞めます」の言葉だからだ。相手の名前を見れば、『藤堂柚巴』。
ちょっと安心した。柚巴は隼同様この就職難の時代に途中採用枠で入社している。そこら辺を突けば「辞めたい」とは言いださない。泣き落としも利く。クレームの可能性もあるが、堅実な性格の彼女は大きな売上を出さない代わりに大きな問題も起こさない。いや、一度だけあるにはあったが。
隼は気軽に携帯を取った。したらば電話向こうから「は、は」と不吉な音。
――ひゅ、は、は…。
呼吸を短く、高速で繰り返せばこんな音になるか。運動後の犬と似ているが、あれよりずっと緊迫している。
「せん、む」
呼吸音の間に聞こえてくるのは、間違いなく柚巴の声である。
「か…こきゅ……たすけ、て。ちゅうしゃ、じょ」
隼は椅子を跳ね飛ばして立ち上がった。藤堂柚巴が催事場で過呼吸を起こしたのは三か月前だ。あくまで聞いた話だが、突然発狂したように叫んで、そのまま呼吸がままならなくなったらしい。幸いにも催事は最終日で、ちょうど営業の俊哉が現場に向かっていた。着いた時には救急車だなんだと大騒ぎになっていたらしい。俊哉が代わりの人員の手配と、彼女を連れて帰ることで事なきを得たのだ。
翌日、別の催事場に出てきた時は元気そうだったと聞いたので、そのまま流していたが。
今、駐車場と彼女は言わなかったか。「過呼吸」「駐車場」と。
駐車場は今、特売の真っ最中だ。客が押し寄せている。特売は数少ないこの会社の黒字部門で、そんなところで問題を起こされては困る。
泉と俊哉はなにをしているのか。隼は慌てて事務所の外へと飛び出した。
その、誰もいなくなった事務所に、忍び込む影がある。
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