無情なるこの世界

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 藤堂柚巴(とうどうゆずは)は、ケーキ製造会社の催事担当販売員だ。催事とは期間を定めて様々な催しを行うことだが、ようは余所に場所を借りて行う出張販売である。百貨店の物産展や、駅内の一定期間ごとに入れ替わるスイーツ店がそれにあたる。  無事に期間満了で閉店を迎えた催事店舗の撤収作業は、嵐である。  スタッフ全員で店の中をあっちこっちに駆け回る。  運搬用の箱の中に、店のロゴが入ったエプロン、装飾用の布、値札などを手あたり次第引っ掴んで突っ込み。商品を並べるための皿、再利用可能な飾り、梱包資材なども曲げないよう割らないよう注意しつつ、やはり力いっぱい押し込んでいく。手が空いた者は掃除に回り、店舗設営前の状態に完璧に戻すのだ。  催事場が駅の場合、こちらの閉店後に次の催事店舗が設営を行うから、撤収は十五分以内に済ますのがベストだ。  終われば催事場の責任者に挨拶と、バイトにも感謝の言葉をかけて――「お疲れさまでした!」  資材を詰め込んだ箱を台車に載せて、運搬用の車まで運ぶ。営業が運転するそれに乗り込めば――発進。  鈍いエンジン音を聞きながら、ようやく柚巴は一息ついた。車に備え付けられた時計が、夜中の二十二時半を示している。店舗の閉店時間は催事場の持ち主――駅や百貨店のことである――によって違うが、二十二時閉店は遅い方だ。  開店が九時からだから、昼休憩の一時間を除いて十二時間、開閉店作業も込みで実働十三時間。今回はバイトがいたからマシだ。売上が見込めない催事場など、人件費を抑えるために柚巴一人で店を回す。まともにトレイにも行けないし、昼はショーケースの裏に隠れて、クッキーやチョコで飢えをしのぐ。  世にブラックな仕事は多いが、催事販売員もその一つだろう。  助手席に疲れ果てた体を預けながら、柚巴は自分の姿を見下ろした。  エプロンを脱ぎ捨てただけの、黒一色のシャツとズボン。お洒落に無頓着になったのはいつからだろう。まだ二十四歳だというのに。  「柚巴ちゃん、大丈夫?」  「あ、大丈夫です」  運転している柳瀬俊哉(やなせとしや)が声をかけてきた。俊哉は会社の営業担当で、催事の始まりと終わりには必ず顔を出す。催事場の責任者に挨拶をするためだが、同時に初日の搬入と最終日の搬出を手伝ってくれるありがたい男手だ。  確か歳は柚巴の二つ上。芸能人ばりに整った顔は、女性が多い販売員の間で人気がある。  「一旦会社に寄ったら、あとは帰れるからね」  「…はい」  会社に戻ったら倉庫に資材を片づけて、書類の提出、上司への報告。どだい、『あとは』のレベルではない。  翌日に回したいが、明日は朝から別の催事場の手伝いだ。今週は名古屋に出張の予定もあって、その準備も考えればとても時間はない。  書類は仕事の合間に書き終わっているが、どうせそのまま反省会に突入だろう。  もう一度時計を見れば、二十三時。絶対に会社の人間は帰っていない。パティシエ長などは泊まり込み三か月目突入だと聞く。    (前に休み取ったのっていつだっけ)  疲労でぼやけた頭は回転が悪い。ようやく思い出せたのは、つい先日会ったばかりの同じ催事担当との会話だ。その時、今月は二回休めたと話した。ちなみに向こうは一回らしい。月末にそんな会話を軽くしてしまえる柚巴も、すっかりブラック社風に毒されている。  「本当に大丈夫? 流石に辛そうだし今日はもう帰る?」  「え?」  「資材の片づけは俺がやっておくし、毎日の売上報告書はちゃんとFAXしてるだろ?  なら問題ないんじゃないかな」  「いいんですか?」  「もし専務に怒られても、そこは帰宅を許可した俺の責任ってことで」  俊哉だって、こんな遅くまで仕事をしているのだ。しかし申し訳なさよりは帰宅の甘美さに負けた。  ――帰って寝たい。  明日の仕事は八時から。今から帰れば支度と通勤の時間を抜いても六時間は寝られる。四時間以上の睡眠などいつぶりか。  信号待ちで車を停止させた俊哉が、柚巴を見てにっこり笑った。  「それに、柚巴ちゃんがまた過呼吸起こしそうになってましたって言えば、専務もなにも言わないさ」  感動は、すんっと引っ込んだ。
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