人形の笑顔をつくりましょう

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人形の笑顔をつくりましょう

 決して幸せにはなれない私の娘。  だけれど今朝も私はその娘の幸せそうな顔を見ることができる。  あの事故を起こしてしまった時から、もう見ることのない顔だと思っていた。  幸せになることができないのならせめて表面ぐらい良いじゃないか、そんな免罪符を自分で刷って自分で使う。    これは私の贖罪で、娘からの罰なのだと思った。  娘の道を母である私がならして舗装する。どんなに小さな石であれそれが我が子の行く先に落ちているならどかし、穴があればその身をもって塞ぐのが親だろう。自分が母にしてもらえなかったことをしよう。それが私の娘に対する教育方針だった。  裕福でない家庭に生まれ、習い事もろくにさせてもらえなかった私には教養がないらしく、医者の家系である夫の両親にもよく皮肉を言われたものだった。  だから娘にはそんな思いをさせたくはなかった。素養や教養がなく、良くない家柄の出だからといって、私のように結婚を拒まれて届出をさせてもらえないだなんてことにはなってほしくなかった。  娘にはピアノに習字から茶道に至るまで習い事をさせた。将来の糧となり、障害をどかすために。  夫からは生活費が振り込まれていたけれど、それだけでは賄えないので私もパートを始めた。娘にはこんな苦労をさせまいと思いながら必死に皿を洗った。水気の飛びきれていない手でハンドルを握って娘の習い事の送り迎えをした。  そんなときだった。前日までのパートの疲れが残っていたのか、ハンドルを握る手にあまり力が入らなくなっていた。運転に支障はなかったから気にしていなかったが、今思えば明らかな前兆だった。  茶道に娘を送っている途中、確かに私の目には青に見えたのだ。けれど目撃者の証言でも、防犯カメラの映像でも信号の色は赤だった。  助手席に座っていた娘は交差してくる車に潰され一ヶ月間昏睡。  やっと目を覚ましたと思ったら若年性アルツハイマーを患っていた。短期記憶がほぼ一日しか持続しなくなった。  娘はもうなんの教養も知識も得ることはなく、普通に暮らすことさえままならなくなった。  毎朝、ちょっとしたパニック状態になる娘に事故のことを説明し、記憶が持たないことを伝える。娘の顔は醜く歪んで涙を落とす。もう娘が笑顔を見せることはない。それが私の贖罪で罰なのだと思った。  娘を大切な人形のように扱い、自分のように失敗してほしくないと思って育ててきた。けれど教養も何もなく失敗を重ねてきた私がどうして娘の教育に成功などするだろうか。私のようになってほしくないのなら、私が育てるべきではなかったのだ。  毎朝どうやって声をかけようか悩んだ。そしていつものように同じようなルーティン化した説明を並べ立てて娘の悲しそうな顔を見る。それが日課となっていった。  けれどある日、パートで疲れていたわけでも気を抜いていたわけでもないのに、娘に説明する中で事故から「一年経っている」というところを「一ヶ月」と間違えていってしまった。私はすぐに訂正しようと思ったが、娘の顔を見た瞬間にこのままでもいいのではないかと刹那に逡巡した。娘は一年たった今よりもまだましな表情をしていたのだ。毎日見ているからこそ気づくことの難しい変化だったが、確かに何ヵ月か前までは今よりも醜くない表情をしていたように思った。事故に遭った日から何ヵ月も経過していたらその期間の分だけショックも大きくなるだろうとその時初めて思い至った。  結局、少しだけ躊躇った後に謝ってしっかりと訂正したのだが、訂正を聞く娘の顔はもう二度と見たくないと思った。  それから毎朝、娘に事故のことを説明する時、考えないようにはしようとは思うのに頭の片隅であのときの「まだましな娘の顔」がこちらを見つめているように感じた。気にしないように、なるべく考えないように、そうすればするほど記憶の中の娘の顔はより明確な輪郭を得るようだった。  気にしないようにするというのは、気にしていることの裏返しで、考えないようにするというのは、そうでもしなければ考えてしまうということだ。  私は「気にしないようにしている」と思うことで表面を取り繕い、けれどその内側では悪魔的な考えを巡らせていたのだった。  そしてある時、壺からこぼれ落ちるようにポツリと口から溢れてしまった。そうなっては塞き止めることはできなかった。罪悪感なんてなかった、もう何も考えなくても口が勝手に動くぐらいには幾度も同じことを考えていたのだ、今更なんだ。贖罪なんていつまでしたところで娘の笑顔は返ってこないのだ。  私はそれから毎朝、少しずつ伝え方を変えていった。記憶障害のことを伝えなかったり、逆に記憶障害のことを伝えてから偽りの記憶を教えたりした。どうせ一日で記憶はなくなるのだからと毎日毎日毎日、私は実験するように娘に伝える内容と言葉を変えて笑顔を求めた。  そうして得る笑顔に意味はあるのかと考えたこともあったが、たとえ偽りであったとしてもそれで娘が喜んで笑顔を見せてくれるなら良いじゃないか。顔を悲痛に歪ませても、口角をあげて笑顔であっても娘の現実はもう変わりようがないのだから。  今朝も私は一日限定の偽りの記憶を娘に吹き込む。少し混乱しながらも重い目を擦りながら聞く娘は昨日と同じように笑ってくれるだろう、だって昨日と全く同じ事を伝えるのだから。  そしてその笑顔を見ながら、また真実をいえなかったな、などと形ばかりの罪悪感を感じる。そうすることで娘に許されるように思えてまた明日の笑顔を楽しみに今日を過ごせる。  娘が何を感じ何を思っているのかは表情でしか分からない。私というベールに包まれて外に転がる痛々しい真実を知ることはない。  お人形の綿のように軽い嘘でできた中身に笑顔を縫い付ける。お人形はどんなことがあっても持ち主に必ず笑顔を向けてくれる。    どんな顔をしたって現実は変わらない。ならせめて笑顔でいたい。 「そう思うよね!」 と私が聞けば娘はあの張りぼての笑顔で 「うん!」 といってくれるだろう。  朝が楽しみだ。今度はどんな笑顔を向けてもらおうか。
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