1 昔からの敵

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1 昔からの敵

  太陽の光を避け続ける(すべ)はない。  だが、降り注ぐ光の矢は、この世界を覆う雪と氷を打ち負かすことは決してできない。たとえ、それがどれほど無慈悲な力強さを秘めていたとしても。しかし、その陽光は自分の身体をすぐさま焼け焦げた一握りの塵に変えてしまうだけの力は持っている。でもそんなことはさせない。いや、絶対にさせてはならないのだ。この御印(しるし)を手に入れたからには……。 「必ず村に持ち帰る。そして……」  ボウシュは無意識にそう呟くと、巨大な廃墟の壁や天井に開いた穴から差し込む陽の光を巧みに避けながら薄暗く広大なフロアを駆け抜け、階下へ続く石造りの階段に身を躍らせた。  身体を覆った薄汚れた分厚い遮光マントは、彼女が小刻みなステップで巧みに陽の光を避けるたび、風に吹き散らされる雲のように勢いよく左や右にたなびく。  行く手を阻む陽の光は、彼女に幼き日の陣取り遊びを思い出させた。鬼たちが両手を広げて彼女を捕まえようとすると、いち早くその手をすり抜けて、次々とやりすごす。鬼たちが体勢を立て直す間もなく、一目散に相手の陣地に駆け込んで、そこにある棒を倒しにかかる。しかし今ここには相手チームの棒も一緒に転げまわって遊ぶ友だちもいない。あるのは静寂と死の陽光、そして……。  過去の思い出に意識を奪われた一瞬、目の前の踊り場の上をサーチライトのように眩い陽光がなぎ払った。危ういところで、それを右へ避けたボウシュは、意識を過去からもぎ離し、両足に一層の力を込めて飛び石を渡るように石造りの階段を駆け降りた。  ボウシュは走りながら怯えていた。それは、あらゆる方向から行く手を遮り、自分を殺そうと待ち構える陽の光に対する恐怖ではない。そんなものなど本当の脅威ではないからだ。デイ・ウォークを半ばまで乗り切った今となっては昼間の太陽光など、もう慣れっこだ。本当に恐ろしいのは、ただ一つ。それを操り、自分を狩ろうとする(かたき)の存在なのだ。  そう。言い伝えは子供たちを怖がらせるために大人が考え出した作り事(まやかし)ではなかったのだ。  太陽の下で獲物を求めて徘徊する(いにしえ)からの(かたき)はこの世に実在したのだ。                *  石造りの階段は五階で途切れていた。  ボウシュは捻じ曲がった太い金属や崩れた壁で完全に塞がれた階段の行き止まりを一目見るなり、階段からの脱出を諦め、そのまま方向を転じた。考える間などなかった。彼女は開けた薄暗い廊下を障害物に気を付けながら駆け抜けた。廊下の床は彼女の靴がそこを蹴るたび、細かな埃を舞い上げた。長い廊下を抜けると広大なホールが待ち受けていた。そこは一時間ほど前にいた何層もの階上にあったホールとよく似た所だった。  ボウシュは、そこで素早く辺りを見回すと地下へ続くエレベーターシャフト ―― 確かエレベーターという人間を上下のフロアに運ぶ古代の器械穴 ―― を探しはじめた。そこまで行けば、迷宮のようなこの広大な廃墟から一気に抜け出し、(かたき)から逃げきることができる。しかも言い伝えでは奴らは暗闇を嫌うので、その中まで追ってはこないはずだ。シャフトまでたどり着ければ、ひんやりと心地よい地下の避難場所にも手が届く。   ボウシュは机や椅子が乱雑にかためられているホールの一角まで到着すると暫し立ち止まり、雪のベッドで、傷つき疲れた身体を休ませる甘い幻想を振り払った。と同時に、胸の前で両手に抱えていた御印(しるし)を肩からたすきに掛けた、ぼろぼろの鞄の中に急いでしまい込んだ。  御印(しるし)を手にすることができる者など、そういるものではない。古代文字は読めなくても中に描かれた挿絵の数々は、それが紛れもなく一族の宝だと教えてくれる。階上でこれを発見した時の息も詰まるような興奮。震える指でめくった一ページ一ページの感触とそこから伝わる胸の高鳴り。服の切れ端を栞の代わりに挟み込んだ時の、もっと先を見てみたいというもどかしさ。そうだ。理解できずとも、この御印(しるし)に描かれたものをの人々に伝えるのだ。私はそのために選ばれたのだ。 「落ち着け。落ち着くのよ」  ボウシュは自分に何度もそう言い聞かせると、弾む呼吸を懸命に整えた。  眩い陽の光が、高い天井の壁面に埋め込まれた何枚もの大きなステンドグラスを薙ぎ払い、そこに描かれた薄汚れた模様の数々を浮き上がらせた。時を同じくして、階上でボウシュを探し求める(かたき)の叫び声が響いた。  その声にビクッと身を震わせたボウシュは傍らの机の陰に素早く身を寄せてしゃがみこんだ。そして辺りの物音に耳を澄ますと恐る恐る頭を上げ、遮光レンズを額にはね上げると、眼を細めて明るいフロアを見渡した。  フロアの中は、階上と同じように雪と埃にまみれた多量の古代書物で埋め尽くされていた。史書師(かたりべ)であれば、さながら宝物庫のように感じることだろう。だが、今のボウシュにとって、ここは宝物庫どころか、黴臭い埃と雪が舞い散る屠殺場以外の何ものでもなかった。  凍った金属の本棚や積み上げられた大きな机を押し倒す耳障りな音が遠くの方に轟いた。  奴らだ。いよいよ(かたき)が来る。どうする?……暗闇はどこ?……探している場所はここにもあるはずだ。階上のように金属の扉を固く閉ざしてなければ、自分にもわかるはずだ。エレベーターシャフトの穴が。あぁ、地下へ繋がる穴は……。ボウシュは焦りが産みだす苛立ちからパニックに陥りかける自分を必死に抑えつけながらホール全体に意識を集中しようとした。しかし、荒々しい足音が聞こえ、先ほど自分が駆け抜けてきた廊下から二つの影、巨大な槍を構えた(かたき)のシルエットが現れると自然と小さく声が漏れた。急いで口を手で抑えたボウシュは未だ遠く離れた(かたき)と目が合ったような気がしたからだ。全身の毛が逆立った。反射的に床に身を伏せた彼女の心臓は胸の内で暴れまわり、耳の中では血管の中の血が濁流のようにゴーゴーと高鳴る音が聞こえる。  身体中に分厚い衣服をまとった(かたき)は、大きく長い腕でフロアに転がる机や椅子を乱暴に押しのけながらボウシュの姿を捜しはじめた。奴らの唸り声がすぐ近くに感じられる。ボウシュは息を詰め、石のように固まって奴らをやり過ごそうとした。そうだ石になるのだ  フロアに足音が谺する。谺より足音の方が大きくなり、唸るような息遣いがまるで耳の真横から聞こえるように感じられる。  獲物を見失った(かたき)はボウシュの潜む長机の手前まで近づくと、くぐもった唸りを発すると机の上に積まれた数脚の椅子を蹴り飛ばした。八つ当たりをされた椅子が更なる埃と雪を伴って、ボウシュの背中に舞い落ちた。  永遠とも思える時間が過ぎた。  (かたき)が踵を返したそのとき、ボウシュは目の端に鈍い輝きを放つ大きな欠片を捉えた。 「鏡?……」  心の中で思わず、そう呟いた。  おそらく(かたき)が薙ぎ倒した椅子と共に机上から床の上に落下したのだろう。床の上に割れた鏡が転がっていた。その中には汚れて怯えた自分の顔が薄っすらと垣間見える。細っそりとした顔立ちの中に意志の強そうな漆黒の瞳が輝く自分の顔。しかもその向こう側。鏡を通して見える遥か後方にボウシュの切望する暗闇が顔を覗かせていた。やっと見つけた。思わず声を上げそうになった彼女はその表面の埃を震える指でそっと拭うと鏡の中に目を凝らした。  見つからないはずだ。エレベーターシャフトは遥か後方に漆黒の口を開けていたが、机や本棚が倒れかかって殆ど入口を塞いでいる。でも人間一人がやっと潜り抜けられる程度の隙間だけはありそうだ。ボウシュの疲れきった心に希望の火が灯った。問題は(かたき)に見つからず、また見つかったとしても奴らをやりすごして、そこに素早く潜り込めるかどうかだ。  (かたき)は手に持った槍の先でフロアの黴臭い空気をかき分けるようにボウシュの隠れている所とは別の方向を探している。時折、煤けたステンドグラス越しに、さっと横切る目も眩む陽の光が敵の槍の切っ先に反射してギラギラと輝く。見つかれば、敵は情け容赦なく仲間たちにしたのと同じ仕打ちを自分にもするだろう。しかし、シャフトの穴までたどり着くことさえできれば必ず逃げ切れる。それどころか、もし地下の避難場所に奴らを誘い込めたら、逆撃を加えることだってできるはずだ。いや駄目だ。死んでいった二人の仲間のためにも逃げきる方がいい。逃げて何としても生き残るのだ。ここで私を取り逃がせば、たぶん奴らも追跡を諦めざるをえないだろう。暗い穴からの誘いはボウシュに考える時間と少なからぬ落ち着きを与えた。  (かたき)はこのフロアをとことん探索するつもりのようだ。このまま時間を置けば、(かたき)の数が増える可能性だってある。  ボウシュは決断した。 「闇が奴らを遠ざける。私は大丈夫。仲間がついているから大丈夫。皆が私を守ってくれる……」  ボウシュは、今は亡き二人の仲間たちに加護を請い、自分を鼓舞する言葉を呟いた。そして床から若々しく引き締まった身体をそっと起こすと、頭から被っていた遮光マントを静かに脱ぎ捨てた。どのみち遮光マントを着たままではシャフトの隙間を潜り抜けられないし、分厚いマントがない方がより機敏に動ける。要は(かたき)と陽の光を出し抜けばいいのだ。逃げ切ったあとのことは、その時また考えればいい。奴らの動きを予測し、タイミングを計って行動するのだ。  荒々しい足音から(かたき)との距離が十分に開いたのを見計らったボウシュは、呼吸を整えると意を決して隠れ場所から躍り出た。その拍子に積み上げられた椅子が倒れ、大きな音をたてたが、かまうものか。ボウシュの心と身体は前方の暗闇だけを目指していた。彼女は目の前に積まれた高い4段の机を軽々と飛び越え、マントの代わりに薄桃色の長い髪をなびかせながらエレベーターシャフトまで永遠とも思える距離を一直線に駆け抜けた。  途中、一枚の大きなステンドグラスの割れ目から差し込む陽の光に下半身を薙ぎ払われたボウシュは、服を通してすら熱湯をかけられたような激痛を感じた。歯を食いしばって痛みに耐えた彼女の身体を掠めて二本の槍が飛び去ってゆく。槍に断ち切られた彼女の髪がぱらぱらと宙を舞った。ボウシュに気付いた(かたき)が先手を取られながらも追撃を開始したのだ。でも、もう遅い。シャフトの隙間はあと少しだ。フロアをあと一蹴りすれば指先が届く。  しかしその瞬間、ボウシュは背中に大きなレンガの塊でもぶつけられたような衝撃を受けて息が詰まり、派手に転倒すると足元の水溜りにしたたかに額と顔を打ち付けた。遮光ゴーグルのレンズが割れて頭から外れ落ちた。  彼女は膝をついて立ち上がろうとしたが、水溜りに足をとられて再び床に突っ伏した。不思議なことに水溜りからは鉄の匂いが感じ取れる。もう一度立ち上がろうとしたが、今度は身体に力が入らず、足は空しく床を滑った。 「あと、少し……」  ボウシュは激しく咳き込み、背中から胸にかけての激痛に顔を歪めた。陽の光を受けたときとは違った痛みだ。息が詰まるほどの激しい痛みに身をよじった彼女は、目の前の水溜りが真っ赤なのに気付いた。 「なに、これ?……」 「面倒かけやがって」  ボウシュの頭の上からくぐもった声が聞こえた。  辛うじて頭をもたげた彼女の目の前に先ほど槍を投げてきた奴らとは違う第二の(かたき)の姿があった。しかも驚くほど大きな身体をしたこの(かたき)は私たち一族の言葉を流暢にしゃべっている。ボウシュは混乱した。だが胸の激痛がその思考を遮り、ただ一つの冷たい現実だけを彼女に突きつけた。  捕まったんだ、わたし……。  頭をもたげていられなくなったボウシュは目の前の血溜りに端正な顔を突っ伏した。鼻につくほど鉄の臭いは濃厚だった。彼女は臭いの元が水溜まりではなく、自分の身体から飛び散った血が作り出した血溜りだと理解するのに、さほどの時間は要しなかった。彼女は震える左手で痛みの元を探り、自分の右胸から腕よりも太い銛の切っ先が飛び出ているのを知った。急所は辛うじて外れてはいるが、これだけ多量の出血と傷では御力水(おちからみず)があったとしても、おそらく助かるまい。この世に生を受けて、まだ百年余り。成人を目の前にして、半人前の子供のまま、ここで虚しく終わるのか。御印(しるし)を手にした自分が、なぜいま死なねばならないのだ。なぜ……。無念さと絶望に囚われ、死の予感にうちひしがれながらもボウシュは疑問を口にせずにはいられなかった。 「な…ぜ……」  『なぜ、私はこんな目に遭うの? お前たちは、なぜこんな酷いことをするの? 私たちがお前たちに、いったい何をしたというの?』。ボウシュは目の前の(かたき)にそう問いたかった。だが声になったのは、辛うじてその一言。あとは口をパクパクと動かすのが精一杯だった。  だが、その思いを察したかのように第二の巨大な(かたき)は、彼女にとどめを刺そうと回収した槍を構えた仲間を押しとどめて溜息をつくと、ボウシュの前に片膝をついた。そして激痛に歪む彼女の顔を分厚く覆った布の向こうからしげしげと覗き込んで、こう言った。 「理由は、お前たちが知っているだろう」と。 「わから…ない……」ボウシュは声にならない声を血と共に搾り出した。 「そうか」  敵は分厚く覆った布を大きな片手で引き下げた。  その中から紛れもない人間の顔が現れた。更なる驚きにボウシュの目は大きく見開かれた。そこにあったのは額から頬にかけて大きな傷跡が走り、一族の者より浅黒くはあるが、自分と同じ人の顔だった。しかも自分と同じくらい若々しい精悍で四角張った男の顔だった。  (いにしえ)からの(かたき) ―― 顔のある(かたき) ―― と彼女の目が合った。『なぜ?……お前たちも私と同じ一族ではないの?……一族の人間がなぜ同じ一族の人間を殺すの?』。生命を失いつつある目は、必死にそう問いかけていた。だが、顔のある(かたき)は、それには応えず「そろそろ終わりにするぞ!」と、槍を構えた仲間たちに叫び、大きく割れたステンドグラスの向こうにむけて巨大な両腕を振り回した。  その途端、ボウシュの上半身が操り人形のように、ひょこっと持ち上がった。身体を貫いた銛に付いた鋼鉄のワイヤーが巻き取られはじめたのだ。ワイヤーはボウシュのいるホールのすぐ隣に建つ、もう一つの廃墟の屋上まで細い糸のように繋がっている。更にその先には捕鯨砲のような射出器が黒々とした巨体を見せている。  フロアに血の太い帯を引きながら自分の身体がズルズルとステンドグラスに出来た大穴までゆっくりと引き摺られていくのをボウシュは感じた。  彼女は真っ赤に染まった鞄を(かたき)から守ろうと最後の力を振り絞り、力の失せた腕で必死に抱きかかえた。 「そいつは何だ?」顔のある敵はボウシュの鞄に目を留めた。「よこせ!」  引き摺られるボウシュに合わせて歩きながら、敵はやすやすと彼女の鞄をその肩から乱暴に剥ぎ取ると、中のものを無造作に引っ張りだした。 「何だ、これは?」  取り出した御印(しるし)に一瞥を加えると、顔のある敵は小馬鹿にしたように、ふんと鼻を鳴らした。そしてボウシュの血が飛び散った御印(しるし)を汚らわしげに床の上へ投げ捨てた。それを見た瞬間、今まさに()こうとするボウシュの心は激しい怒りにうち震えた。それは力を失って、ただただ引き摺られていくしかなかった彼女の身体に力を与え、立ち上がらせるほどに強く激しいものだった。 「返せ……」  立ち上がったボウシュの口から血とともに再び声が搾り出された。 「ほぅ、まだそんな力が残ってたのか」 「返せ、御印(しるし)を……」  純粋で激しい怒りは、ワイヤーに一歩、また一歩とステンドガラスの大穴へ誘われながらも、ボウシュの爪と犬歯を喧嘩をした時のように鋭く伸ばさせた。 「御印(しるし)だと?」  ボウシュの身体の変化にも無関心だった(かたき)は、捨てた御印(しるし)を拾い上げると、巻き取られるワイヤーに引っ張られてヨタヨタと後ずさるボウシュに訝しげな視線を向けた。  彼女は御印(しるし)を取り返そうと手を伸ばした。だが肩から先は指先まで、力なくゆらゆら揺れるばかりになっている。そんなボウシュを無視して、(かたき)はスタスタと彼女を追い抜くと、ステンドグラスに開いた大穴に近づいた。そして躊躇いもせずに斜めに差し込む眩い陽光の中に一歩を踏み出すと心地よさそうに一身にそれを浴びた。背中越し(かたき)に目をやったボウシュは、それを見た途端、怒りの心を少なからず麻痺させた。  陽光を浴びた後に始まる皮膚や内臓組織の大破壊と堪え難い苦痛の叫びの代わりに、この敵は愛おしそうに太陽を見上げている。陽に……あの太陽に晒されて無事でいるなんて……。  ボウシュは理解した。姿形は同じでも、こいつは一族じゃない。それどころか人間でもない。昔よりの敵(いにしえよりのかたき)は、やはり……。 「か・い・ぶ・つ……」 「どうした、懺悔でもしたいのか?」と、顔のある(かたき)は聞き取れなかったボウシュの言葉を探ろうと、再び開いた御印(しるし)から目を上げると残忍そうな笑顔を向けた。 「さぁ、何だって。何が言いたい?」 「怪物………」 「怪物だと。ふん。怪物は、お前らだろ」  言うや否や、顔のある(かたき)はイジメっ子がするようにボウシュが御印(しるし)と呼ぶ本をステンドグラスに開いた大穴から勢いよく外へ放り投げた。  成す術もないボウシュが、この(かたき)に何らかの印象を刻み付けたとすれば、この瞬間をおいて他になかったろう。彼女は最後の力を振り絞って大切な御印(しるし)を追って廃墟の外へ身を躍らせたのだ。  しかしボウシュは投げ捨てられた御印(しるし)に追いつくことも、それを確保することもできなかったし、若々しい身体を雪の地面に激しく叩きつけられることもなかった。  廃墟の外で燦々と照り輝く陽の光は、雪の大地に抱かれる前に彼女の身体を燃やし尽くし、一握りの塵に変えたのだ。  塵は、大地に落ちた本の上に、粉雪のように舞い降った。  ボウシュの身体を貫いていた銛は廃墟の外壁に当たって鐘のように寂しげな音色を響かせた。
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