さよならノート

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*** 「あなたなら知っているわよね。わたしを育ててくれたあの人が、いつも教えてくれたこと」  机に頬杖をつきながら、わたしは呟きを口にした。 「外面だけの人は嫌いだって。内面を磨きなさいって。我ながら、沢山愛をもらって育てられたと思うわ」  歌うような軽やかさで、愛する人に語り掛けるような素振(そぶ)りで、独り()ちる。 「優しくて、折れなくて、強くて、温かい、そんな心が欲しかったの。全て身に付けて、いつか大切な人ができたら、その全てを捧げたかったの。そして、あなたに出会ったのよ」  右手に藍色のシャープペンシル。  その下にノート。  どちらも動かないまま、木偶(でく)のように横たわっている。 「あなたにとってもわたしにとっても、いい人になりたくて。磨いている内にいつの間にか、磨り減っていたのかしらね」  一ページ、一ページ、でこぼこになるまで書き込まれた交換ノート。  辿り着いた最後のページは白紙のまま、記す言葉が続かない。 「頑張っても足りないの。足掻いても届かないの。心が成長しないから、自分で叱ってみても、変われないの。可笑(おか)しいわね、人って自分のことは簡単に虐待できるのね」  自嘲して微笑むと、目尻を雫が滑り落ちる。  涙声が一層滑稽で、本当に馬鹿だと、再び自虐を口にした。 「それでも、未熟で足りなくても、人に優しくいたかったの。だから、悲しみも怒りも隠して笑った。気にかけて心配して、言葉をかけた。そんなわたしだけを、あなたに見ていてほしかったのよ」  書く手が進まないから、ペン尻で、肩にかかった毛先をいじる。  あなたへの言い訳ばかり繰り返すわたしは、顎から滴る涙を拭う資格もないと思った。 「本当よ。優しくなりたい気持ちは本物だったの。なのに、取り繕う内にいつの間にか、外面人間になっていたの」  直接見ることができないから、卓上鏡越しに、あなたの顔を盗み見る。  卑怯な覗き見はすぐにあなたに露見して、ばっちりと目が合った。 「あなたには、あなたにだけは、優しくしたいの。優しいわたしでいたいの。なのに、堰を切ったように、悲しいのはどうして? 唐突に怒りが込み上げてくるのはどうして?」  一瞬で目を逸らす。  もう視線が交差しないように、わたしは空いた左手で顔を覆った。 「あなたに嫌われたくないの。卑怯よね。ううん、傷付かないでほしいのにって、そう思ってもいるのよ。それも本当なのよ」  左の指で、眉間をぎゅっとつねる。  眼前にチリチリと火花の幻覚が走る。 「だからお願い。わたしの近くに来ないで。 この顔を見ないで。楽しいことに誘わないで。もう、放っておいて」  涙はもう止まっている。  眩暈(めまい)の中、私は右手のペンを強く握る。 「この仮面が剥がれて、あなたに刃を向けたら。わたしはもう生きていけないの」  愚鈍な右手が、漸くノートの上を滑り出す。 「どうか、一人にして」  書き慣れた右上がりの字が、白紙のページに刻まれていく。 「わたしがわたしを、"やさしいひと"だと、盲信(おも)っていられるように」  叶うはずもない願望を口にしては、自分の愚かさに失望する。そうして初めて、まだ自分自身に対する希望を持っていたことに気が付く。 「身勝手でごめんなさい。ごめんなさい……」  愛しい人。  あなたに(すが)り付いて傷付けるくらいなら、せめて理性(きぼう)の残る内に、あなたの手を放したい。  右手のペンを置いて、机に突っ伏す。  ひどくなる一方の眩暈に浸り、暗転した世界を揺蕩(たゆた)う。  余白ばかりのページにはたった一文。   『別れてください』  簡素な文になったのは、情けない我儘や言い訳くらい、せめて心の中に仕舞ったままでいたかったからだった。
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