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『別れてください』
ノートに記された、無駄なく簡潔な要請を見詰めながら、僕は深く溜め息をついた。
「いつかこんな日が来るとは思っていたけれど、まさか今日だったなんてね。いつも突然過ぎるし、いつも何もかも決めてから言うんだから」
愛しい人。
君の意思表示はいつだって揺るがない。
頑固な君は、何もかも決めてしまってから、初めて言葉にするのだ。
呆れを孕んだ眼差しで、卓上鏡に映る君を見る。
フイと右に視線を逸らした君に釣られて、僕も左に俯いた。
「大丈夫なんだけどなあ。本当はもう、知っているから。君が怒りも悲しみもする、一人の人間だってこと」
囁く声は、きっと君の心には届かない。
承知の上で、僕はポツリポツリと言葉を続けた。
「その上で思うよ。君は優しい人間だって。感じる力が強いから、あれこれ気にしてしまう癖があるだけの、どこにでもいる、普通の人間の一人だって」
完璧な人間などいない。
弱さのない人間などいない。
僕はそれを知っているし、君も頭では分かっている。
理解っていながら傷付く不器用さは、世の中を渡っていくにはひどく不便なものだろう。
「"外面人間"が嫌いな人。"心底善い人"が苦手な人。世の中には様々な人がいて、皆から好かれることなんて、誰にもできやしないんだよ」
"嫌われたくない"という強迫観念の壁は、どうすれば壊すことができるのだろうか。
正解が分からないから、ペンを取った僕の左手が止まる。
「君がどんな人間でも、君を大好きな人もいるんだよ。……なんて、何回"好き"を繰り返しても、君は素直に受け止められないんだろうな」
君との思い出が、回転木馬のようにグルグルと頭の中を廻る。
語らいを繰り返したノートの、前ページまでを捲りたい気分だったが、そうしたところで変わらぬ状況を憂い、僕は額に手を置いた。
「優しさを搾取する奴や、人の良さを妬む奴がいるから、優しい分だけ傷付く人間がいるんだ」
君が置かれていた環境は、殆どこの交換ノートに記されている。
それを繰り返し読んだ僕は、君とは違って躊躇いなく怒りを露にできる。
「僕は本当は、君を此処から遠ざけて、守りたかったんだよ。真綿でくるむように。もう傷付くことのないように」
僕に怒ってほしくないと君が止めるから。
僕にそう思わせた罪悪感で、君がこっそり袖を濡らすから。
だから僕は拳を下ろすのだ。
それが正しかったのか、間違いだったのか、今も分かりはしないけれど。
結果として、君が僕との決別を選んだことだけが、今目の前に突き付けられている。
「それでも君は、"君"を知られることを嫌って、骨の髄まで嫌い抜いて、泣くんだね。そうして僕すら遠ざけたいと言うんだね」
もしも。
もう少し察しが悪ければ。
もう少し僕が、君の感情に疎かったら。
僕は、君の傍にいたいと、駄々を捏ねることができただろうか。
食い下がって、離れたくないと、自分の我儘を通そうとしただろうか。
「……だったら、今は遠くで、君を見守っているから」
そんな"もしも"は起こり得ないと、誰より僕が知っている。
君の考えが、手に取るように分かるから。
それを君が気に病むことも。
僕達は、同質であって対称的だったから。
正解のない"答え"を、右下がりの字で書き加えていく。
「だから、どうか忘れないで。君は優しい人なんだということ」
口にした僕の願望を、君が聞いたら全力で否定するだろう。
優しくなんかなれないと言い募って、自分の言葉に自分で傷付くのだろう。
だから、心から願っていても、君に伝えることはできない。
「どうか、君が君を愛せた時には……もう一度、傍にいさせてね」
叶わぬ願いを最後に呟き、自嘲する。
ペンを置いた左の指で、肩についた毛先をいじりながら席を立つ。
案外呆気ないものだな、なんて嘯きながら、僕は、襲い来る頭痛に身を委ねた。
ノートには、飾り気のない提案に、返答が一つ。
『分かりました』
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