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『ふざけてんの! なんで、ばばぁ本人が謝りに来ないのさ。とっとと帰りな!』
そこまで言いながらも、黒川の母親は見舞金を受け取ったのだった。
その帰り道に菊枝は心の中で呟いた。ふん。あなたは甘いわよ。あの、高飛車で我儘で尊大なお義母様が人に頭を下げる訳がないでしょう。
そう、遥子は謝罪する事が苦手だ。生まれながらのお姫様気質。父親が外交官で、幼少期はインドやインドネシアで暮らしており、いつも、大勢のお手伝いさんに囲まれていた。だから、遥子は簡単なことも人にやらせようとする。
『菊枝さーん。あなた、テレビの録画を頼んだのに忘れたでしょう』
『いいえ、忘れてません。そもそも、そんな依頼は受けていません』
『嘘よ。あたし、ちゃんと言ったわよ』
言った、言わないで揉めることなど日常茶飯事。ほぼ、百パーセントの確率で遥子が勘違いしている。
(あの人、それでも認めないのよ。そういう人なのよ)
そんな出来事をツラツラと思い返しながら、遥子の創作の資料になりそうなものを片っ端から借りていったのだった。合計十冊。ズシッと重い!
「お世話になりました。どうも、ありがとうございます」
菊枝は資料を見つけてくれた司書さんに丁寧に礼を言ると、彼女は、少し恥しそうに告げた。
「あの、レディ撫子の続編をお書きになる予定はあるのでしょうか。あれ、とてもいいですよね」
いわゆるヤングアダルトというジャンルの作品だ。ライトノベルよりは少し文学的なのだが中身は少女漫画だ。レディ撫子の単行本が十万部も売れたと言って遥子が喜んでいた事を思い出す。確かに、あれは名作だった。
菊枝も遥子の文才は認めている。だからこそ、こうして資料を集める手伝いもしているのだが、それにしても本は肩を圧迫する。重たくて嫌になる。
さぁ、帰ろう。モダンな外観の図書館の一階のロビーを出るとスマホが軽快に鳴った。遥子からだ。ゾワツと嫌な予感がする。
『大変よ。菊枝さん! 大切な事を言い忘れていたわよ。今日は、お誕生日よ』
「誰のお誕生日ですか?」
『あらあら、家族の誕生日を忘れるなんて信じられないわね』
「でも、亡くなったお義父様の誕生日は来月ですよ……」
『やーね、タマちゃんのお誕生日よ。なんで忘れるのよ。先週、タマちゃんのバースデーケーキを頼んでいたのよ。あたし、あなたに言うのを忘れてたわ。帰りに受け取りに行ってね。頼んだわよ。お店の住所はLINEで送るわ』
高慢なペルシャ猫だ。白くて長い毛をシャンプーしてブラッシングするのも、トイレの汚物の処理や砂を入れ替えるのも菊枝。応接間の高い壷を割ったり、網戸に登って破ったり、ろくなことをしない。あんたの猫だろうよと言いたい。モヤモヤしながらも猫グッズのお店に向かう。
今夜は海老フライ。遥子が好きなタルタルソースも作らねばならない。海老フライの他に、きんぴらごぼうやおひたしや芋の煮つけなどの副菜も必要だ。夫は接待で遅くなる日の夜、息子や娘はピザでもいいと言ってくれるのだが、遥子がいるせいで楽が出来ない。
カレーとサラダだけだと品数が少ないと文句を言う。なぜか、スーパーで美味しいお惣菜を買うと遥子にすぐにバレてしまう。
『あたしは、あなたの田舎くさい料理が食べたいのよ』
そんなことを言われても少しも嬉しくない。
ああ、忙しい。この日、猛烈な勢いで帰宅して夕飯を作るしかなかった。主婦にとってキッチンは戦場だ。先週から、激しい五十肩に苦しむ菊枝にとって料理は激務となっている。それでも、ちゃんと丁寧に作った。それなのに、カリカリとした歯触りの海老フライを齧った遥子は不服そうに言った。
「このタルタルソース……、何だか、いつもと違うわね」
「すみません。ピクルスを切らしていたので、らっきょうを刻んで入れました」
「あーら、残念。やっぱり、ピクルスの方がいいわよね。ほんと、残念ね。なんだか、寂しいわ。それに、前から言っているでしょう。ジャガイモのお味噌汁はいいけど、わかめのお味噌汁はやめてよ」
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