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菊枝の眉間がピクッと軋んだ。てめえ、いちいち文句を言うなんじゃねぇよ。
「ハッピーバースデー。五歳になったのね。タマちゃん、お祝いしましょうね」
遥子は、満面の笑みでタマに差し出すが、タマは猫用のケーキが気に入らないのか、そっぽを向いている。
ツンデレという言葉があるが、タマが遥子には懐いている姿をあまり見たことはない。ごく稀に自分からスリスリしてくる。しかし、遥子が撫でようとすると猫パンチをする。遥子はそんなタマの高慢さを好ましく思っているのか、いつも、デレデレと目を細めて話しかけている。
「あらあら、タマちゃん、毛玉が溜まっているのかしら。いやん。タマちゃん、きゃっ。しっかりして」
グッグッと身体を揺らし始めている。猫の飼い主にはお馴染みの光景だ。ひどく苦しそうにカフカフと喘いでいる。
「きゃー-。タマちゃんが吐いたわよ。菊枝さん、タマちゃんのお顔を拭いてあげて」
また、タマがカーペツトにゲロを吐いた。せっせと片付ける菊枝の傍らで遥子は老猫を抱っこしている。やはり、遥子はお姫様だ。拭き掃除を手伝う気は一ミリもなかった。洗面所で雑巾を絞る菊枝はこめかみをぴくぴくと揺らした。
『菊枝さんがブラッシングを怠けたせいで、タマちゃん、毛玉が溜まっちゃったのね』
そんな呟きが聞こえてきたからだ。
居間に戻ってきた菊枝は喉に込み上げる苛立ちを押えながら言う。
「お義母様が汚した本の事ですが……。今後、どうするかは御自分で司書さんとお話にして下さいますか」
「あたしが、わざわざ図書館に行ってお話しないと駄目なの? あなたが何とかしてくれない?」
「あの本を借りて汚したのはお義母様ですよ。電話でもいいので連絡して下さい」
「あーら、コーヒーをこぼしたのはタマちゃんなのよ。遊んで欲しくて机に乗ってきたの。猫パンチしてじゃれようとしてコップを倒してパニックになってビリビリ破いたのよ。悪気はないのよ」
「猫に悪気はなくても、公共物を汚すのはよくありません」
「もちろん弁償はするわよ。でも、本屋にないのならどうしようもないじゃないの。困ったわね。まさか、そんなに希少なものだったなんて知らなかったわ……。けっこういい手記だったのよ」
歯磨き粉としてイカの甲の粉末や塩や煤を使っていたとか、当時の石鹸は大きな牛肉と同じぐらいの値で、しかも冷水では使えないが湯を沸かすのにも石炭代がかかるといった生活に根ざした事が書かれていたらしい。
「きっと、他の作家や学者も、あの本を読みたくなるはずよ」
そんな話をしていると高校三年生の娘のユウが余計な事を言い出した。
「おばぁちゃん、ネットで検索してみなよ。アマゾンは古本も売ってるよ。個人の古本屋さんもネットで販売しているから問い合わせてみなよ」
「あら、それなら、菊枝さん、探してみてちょうだいね。頼りにしてるわよ」
はぁ。何だと! ふざけんなと思いながらも、分かりましたと言うしかなかった。
☆
もう限界だ。菊枝は溜め息を漏らす。吐き気がするほどに肩が痛くてたまらない。朝からパソコンに向き合ったせいで五十肩が悪化している。少しだけ横になりたい。遥子さえいなれば休めるのに……。どこか行ってくれ。消えてくれ。お願いだ。昔のようにイスタンブールやパリに取材しに出かけてくれー--。しかし、最近の遥子はずっと家にいる。
『菊枝さんは、あたしは、とーっても忙しいの。だから、通販の入金をお願いね~』
今日の午前中、郵便局に走らされた。くそーーー。まじで腹が立つ。
先週も、夕方。てんぷらを揚げている最中に書斎にいる遥子に呼び出されたのだ。いちいち、どうでもいい事で呼ぶなと言いたい。
『菊枝さぁーん、マジ卍の使い方はこれで合ってるかしらぁ~ あの女、マジ卍で絞めてやりたい。トレンディな女子の会話になってる?』
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