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菊枝は遥子の書く大人向けの恋愛小説はあまり好きではなかった。というのも、主人公の女はとびきりの美人でプライドが高くて男に対しても好戦的だからだ。つまり遥子を彷彿させるので、読んでいてイライラしてしまう。平たく言うと、主人公と自分に距離があり一体感が持てないのだ。
一方、ティーン向けに書いたレディ撫子も同じく美人で気が強い主人公なのだが、これは、菊枝の胸に心地よく刺さった。大正時代の息吹や主人公の逞しさが好ましい。
『先生、これは素晴らしいです!』
編集者の反応も上々だった。
磁石式の電話、蒸気機関車。ワンピース。靴。街には西洋のハイカラなものが増えていく。当時の家具や街並や食事の光景が生き生きと描写されている。
『レディ撫子』は、没落華族の撫子が天国にいる母方のおばぁ様宛てに手紙を送る書簡形式の小説である。主人公の武田撫子の父親の武田永一は投資に失敗して借金を背負っていた。坂口倫太郎と婚約すると坂口財閥から援助してもらえる。
この婚約をお膳立てしたのは、父に金を貸した男だった。最初は、結婚に後ろ向き名撫子だったが次第に倫太郎に惹かれていく。
袴姿の桜子が女学校の帰り道。桜並木の道を農家の馬が暴走して、撫子は轢かれそうになる。そこに、倫太郎が颯爽と現れる。乗馬が趣味の倫太郎様は、曲芸師のように軽やかに馬の背に飛び乗り救う。しかし、その後、撫子と言い合いになって撫子は肥溜めに落ちる。
『笑ってないで、あたしを助けたらどうなの?』
『でも、君はオレと喋りたくないって言っただろう?』
ニヤッと笑う倫太郎様に萌える。ああ、爽やかなのに何気にドSなところもいい!
きゃーー。キュンの波動が止まらない。倫太郎の何気ない仕草にも色気がある。そういう描写が遥子は抜群に上手い。
ふとした台詞もイケメンだ。撫子の心は少しずつ傾いていく感じもいい。だから、恋愛とは縁遠いオバさんの菊枝も自然に物語の二人を応援したくなる。
撫子は顔を真っ赤にしながら彼の自宅に向かい、倫太郎の複雑な生い立ちを知り彼に同情の気持ちを抱くようになる。
色んな意味で印象深いシーンである。
夏祭り、夜店で賑わう神社を手を繋いで走るシーンも良かった。
昔の黒電話というは盗み聞きが簡単に出来る。倫太郎に片思いをしている従姉の桃香は、倫太郎の御屋敷で一緒に暮らしている。頻繁に電話を盗聴して二人の仲を裂こうとする。撫子は、嵐の夜、ずぶ濡れになって肺炎を起こす。でも、おかげで二人の愛は深まる。
大正時代といえば関東大震災。倫太郎は地震によって瓦礫の下敷きになり記憶喪失に陥る。撫子は絶望する。そして、倫太郎への愛を自覚する。どこかで聞いたようなストーリーだと酷評する人もいる。でも、お約束とも言える物語に菊枝はワクワクした。
ちなみに、今、遥子が書いているウィクトリア時代の少女イライザの物語も、ストーリー展開が早くて面白い。遥子は資料を読み込む時間が足りないと言いながら呻いている。遥子が努力している事は理解しているつもりだ。
(でも、自分の事は自分でやんなさいよ。わたしはメイドや秘書と違うのよ!)
五年前、遥子の秘書だった女性は結婚して引退している。
『いいわよね。あなたは気楽で……』
そんな事を遥子からポロッと言われると新品の刺身包丁でブスッと刺したくなる。
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