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月のみぎわ
今夜は風が凪いでいるようだ。
亜矢は隣に寝ているミズキを気づかいながら、寝返りをうった。
忘れたように湿って生ぬるい風がレースのカーテンをゆらして、狭い四人用の寮室のなかをゆらりとめぐっていく。
満月は煌々として雲のない上空にある。部屋の床に落ちる窓枠の影を亜矢はぼんやりと見ていた。
「眠れない?」
亜矢の気配に気づいたのか、ミズキが声をかけてきた。
体をもとに返すと、眠たげに半分目を閉じかけたミズキが、それでも心配そうに亜矢を見ていた。
「ん、ちょっと、ね」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。明日になればきっと」
そう言って、亜矢をぎゅっと抱きしめた。柔らかい大きな胸に。
ミズキの長い髪にしみこんだシャンプーの香りに、かすかに鉄の匂いを感じる。
ミズキは月のものが来たばかりだ。夏場のパジャマはTシャツにハーフパンツが寮生のスタンダードだけれど、足を冷やしたくないのだろう、今夜のミズキは長いスエットをはいている。
「こうしていたら、あたしのがウツるから。亜矢のお月さまもきっと来るよ」
お月さま、なんてミズキらしくない可愛い言葉を使うのは、亜矢を不安にさせないための心づかいだろう。
茶色に染めた髪に、両耳のピアス。どちらも校則違反だ。しょっちゅう職員室に呼ばれるミズキ。一年ダブって年上ということもあるのだろうか、面倒見がいい。同室の亜矢にはいつも優しい。今夜もそうだ。
生理が遅れて落ち込んでいる亜矢と、一緒に寝てくれている。
もう一人の同室者の香奈先輩は自宅に帰って今日明日はいない。だから、ミズキと秘密の話もできる。
「あれから会ってない?」
亜矢はどきんとした。あれ、から。
「うん」
あの人、恋人の三田村とは会っていない。いや、恋人だったというべきか。
「イヤだった?」
亜矢はミズキの鎖骨あたりに頬をくっつけた。ミズキの鼓動が聞こえる。規則正しく、血が流れる音がする。
「わかんない。痛かったし、こわかった」
「そっか」
ミズキは亜矢の頭を優しくなでた。亜矢はミズキの背中に手をまわして、ぎゅっとつかまった。そうしてないと、不安で泣いてしまいそうだ。
男子はきっと知らない。女の子はみんな知っていること。
生理はうつる。だからなりたいコは、生理中の友だちにくっつく。
火遊びみたいな危ないことをした子は、月がくるのを待ちわびる。
どうか、どうか失敗していませんように、と。
「ゴム使ってって言えばよかったのに」
わかってはいた。ちゃんと授業でも聞いていた。いつもは買い物に行かない少し離れたドラッグストアまで自転車飛ばして、シャンプーとか洗顔料とかと一緒にコンドームもカゴに放り込んだ。レジの列が途切れるのを待って会計した。レジ係のおばさんは表情ひとつ変えなかったけど、亜矢は何でもないふりをするに、ものすごい勇気が必要だった。
そうまでして買ってきたのに。いざ、そのときになったら言い出せなかった。
「だって、がっかりさせたくなくて」
それに、それどころじゃなかった。大学生の三田村の部屋に初めて行って、いつもとちがうキスをして、それからあとは……。
恥ずかしさと緊張の中で、ただ嵐のなかにいたような、わけのわからない力に振り回されていた。
ひとが変わったみたいな三田村が怖かった。
いままで誰にも見せたことがない自分の体をさらして、恥ずかしさに耐えた。なんども、やっぱりやめてと言いそうになって。
そして……ただ痛くて悲鳴をあげた。
ぶちん、という何かを突き破るような鈍い音が体の中からした。
三田村の荒い息も、いつもより乱暴な扱いも、なにもかもが怖かった。
「もう会わない?」
「わかんない」
前は次に会える日までを指折り数えて待っていたはずなのに、今は顔も見たくない。
「亜矢っておとなしそうで、時々びっくりするくらい思い切りがいいよね」
ぽんぽんと、ミズキが亜矢の背中をあやすように叩く。亜矢は髪を染めてもいなければ、スカートを短くもしてない。夏でもブラウスの第一ボタンまでいっかりとめて、リボンを結んでいる。クラスの中の滋味な、その他大勢だ。
「なに焦ってたの? ま、いつかはなくすものだけどね」
「ミズキは、とっくになくしてるじゃない」
亜矢が唇を尖らせて言うと、ミズキは軽く笑った。
「自分の体を大切にしましょう。貞操を守りましょう。でも、将来は良き母となりましょうって、すごい矛盾。一生処女のシスターたちにはわかんないよ」
どうやって、子どもを作れって? 生殖の手順を踏まずに。
「マリアさまか」
あたしたちは、マリアさまなんかじゃない。
「学園のれんちゅうが神経質になるのも分かるけどね。妊娠して中退ならまだまし、はてはトイレで出産して救急車や警察が駆けつけるだとか。私立としては悪評は避けたいよね。でも香奈先輩だって、今夜は恋人のところだろうし」
みんな、手をつなぐような気楽さで体をつないでいく。
「にんしんするって、どんな感じかな。べつの生き物が自分の中にあるって」
「エイリアンあつかい? 亜矢っておもしろい言い方するよね」
「中絶って……」
いいかけて亜矢はやめた。あれは胎児を胎盤ごと体からはぎ取るということを授業で知った。下手をしたら、二度と妊娠できない体になる。
でも、子どもを持つってどういうことなんだろう。そのまえにある、男女の行為は別に子どもが欲しくてしているってだけでもない。
「生理、来るかな」
「来るよ、ちゃんと。初めてしたからストレスで周期がずれたんだよ」
あたしも、そうだったからと、ミズキが言った。亜矢はミズキと足を足を絡めて体をぴたりと寄せた。
どうか、きますように。
子どもは欲しくないです。
そう願う自分が、とても冷酷に思えた。けれど現実問題として高校生の自分が妊娠なんて、考えたくもない。
あの日、帰りのバスの中で味わった。
体の中から、どろりとした液体が流れて出て下着を汚していく感覚を。
寮に帰ってトイレで下着を取り替えると、塩素のような匂いがして小さな布は少しの血と共にぐっしょりと濡れていた。
今更ながら、体の中に出されたものが腹の中をうごめいているのだと現実をつきつけられた。
こんなに出されたら、妊娠してもおかしくない。もしも、妊娠したらどうしよう。両親に、先生に友だちに何て言われるだろう。ぜったいに欲しくない、赤ん坊なんて。
なぜ、体を許したのか、なぜあんな男と……亜矢はトイレで吐いた。
「ほんとは好きじゃなかったのかもしれない」
クライメイトにどんどん恋人が出来てきて、つい自分も欲しくなっただけかも知れない。それで初めて出来た恋人に浮かれて、恋人なら当然しなきゃいけないって思いこんでいて。
「そっか」
何に焦っていたのだろう。経験するのが早ければ早いほどいいなんてないのに。ほんとはそんなふうに考えること、なかったはずなのに。
「つぎはホントに好きな人と、ね」
「つぎなんか、あるのかな」
あの行為は、好きな人となら心から喜べるのかな。みんなで回し読みしている恋の物語みたいに。
もう競争には参加しない。自分の体を誰よりも大切にできるのは自分しかいないのだから。
「ほら、ちゃんとかぶって寝よう」
ミズキが亜矢に薄手の毛布をかけてくれた。
窓の外から虫の聲が、かすかにした。目を閉じると、亜矢は月が昇る浜辺を夢見た。
満月が水面に光の道を作りながら姿を見せる。
亜矢は裸足でみぎわにいる。あたたかい波が足を洗っていく。
満ちた月の青白い光りが亜矢を照らす。
亜矢はいっしんに月に願う。
どうか、証を。わたしの体がわたしだけのものだという証を。
ミズキの寝息が聞こえる。一度だけ、下腹部に鋭い痛みが走った。
亜矢は微笑むと、ミズキに抱かれたまま眠りに落ちた。
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