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帰り道にて
地下鉄の改札から地下街まで歩き、JRの改札に向かう。まばらな人通り。俺はさっき起こったことを何回も頭の中で繰り返していた。どうして先輩は俺の言葉を聞いてくれなかったのか。あの歌詞を口にしたのか。
階段を昇っていく。スマホを取り出し時間を確認する。もう夜も遅い。
あのライブハウスの中で、俺は確かに、目の前でロックを歌うミュージシャンたちが格好いいと思った。汗を流しながら、マイクに唇をぶつけ、時に激しく、時に楽しく歌う彼らはすごいと思った。
だけど、あのライブとは何かが違ったんだ。
鳴りやまない鼓動を胸に抱えながら帰ったあの日。一瞬だけ目が合ったあの日。先輩の唇がマイクに触れそうで触れなかったあの日。求めていたものがそこにあった感覚がしたあの日。
気づけば、目の前はJRの改札だった。ステンドグラス前にはほとんど人がいない。俺は歩いていた足を止め、その場に留まった。電光掲示板に何本もの電車の出発時間や行き先が表示されている。俺が乗るべき電車はあと三分で発車するところだった。走れば十分に間に合う。なのに足は動かない。
とっさに、改札に背を向け、これまで来た道を走った。
何のために走っているのか、よくわからない。でもあの改札前に戻れば何かが起きる気がして、何かに急き立てられるようにして、俺は走った。誰かの肩にぶつかりそうになりながら、時に転びそうになりながら、懸命に今まで歩いてきた帰り道を戻っていった。
先輩と一緒にいた、あの時が戻ればいいなんて思っていない。だけど逸る気持ちが抑えきれずに、階段も一段飛ばしで降りていく。地下街を抜け、誰一人として走ってなんかいない地下歩道も駆け抜けた。
――青に染まればもう何もいらないぜ
頭の中で鳴り響くボーカル。青い照明の下で汗が光る。ギターを鳴らしながら、あの歌を歌いながら、先輩だって何かに動かされているんだ。
――ロックンロールが死なないようにただ歌うだけさ
きっとロックンロールは死なない。知らない誰かが知らないどこかで歌って、ロックンロールは息を続ける。だけど先輩にしかできないロックンロールが、俺を動かしてくれたんだ。
どうしたって届きやしないこの気持ちを、どう言い表したらいいんだろう。
走る速度は増していく。
あの強烈に憧れた日に戻れるなら。
視界が地下鉄の改札をとらえる。
きっと、さっき言えなかった言葉を先輩に伝えるんだろう。
地下鉄の改札前で、通行人は息を切らす男を訝し気な目で見ては通り過ぎていく。俺は使い切った酸素を取り込むように大きく息を吸って、そして吐いた。
当然、改札前には誰もいない。先輩も、もうここにはいない。きっと乗客の少ない地下鉄に乗りながら、ライブハウスで買ったCDをビニール袋から取り出し、それを眺めては心躍らせているのだろう。俺のことなどすっかり忘れて。でも、それでいいと思った。
――好きだって言葉を言う前の気持ちが君に伝わればいい
そんなことできるか、と思いながら、そんなことできたらいい、と思う自分がいて、少し笑えた。
伝えたかった言葉が言えなくとも、きっと先輩には伝わったはずなんだ。言葉にする前の気持ちが、先輩に伝わるはずだから。先輩の気持ちなんてわかりはしないけれど、きっとそうだ。
戻ってきた道を、また戻る。今度は歩いて戻る。地下歩道を歩き、地下街を歩き、そしてJRの改札を抜けて電車に乗って帰るんだ。見慣れた帰り道。ゆっくりと歩きだして、俺は「ありがとうございました」と小さく呟いた。先輩が好きだと言ってくれた声で。
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