マドレーヌ墓地の女

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マドレーヌ墓地の女

      決して特別な生まれでもなく、曽祖父の代までは、越後の小作農だったと申し上げれば、私の家系については、十分に語りつくされていると思います。  私が三十才を間近に控えても独身でいるのは、別に私がそれを望んでいるからではありません。世間でよく云われる「縁遠い」ということではないだろうかと思っています。  過去に、ボーイフレンドといわれる人たちも何人かおりましたし、結婚を申し込まれたこともありました。  この事実をとりましても、私は自分自身、顔、かたちを含めて、平均的なこの国の女性と思っております。   しいてあげれば、マリと云う私のカタカナの名前が、家族の中でちょっと変わっているというだけです。これは、姉たちの「としこ」「よしこ」と昭和初期に流行った名前と比較して、少し、モダンなものをとの親心だったそうで、私は親に感謝しているくらいです。  ちなみに、姉二人は、女性の適齢期と云われる年頃のときに、望まれてお嫁に行き、夫と子供たちと円満な家庭をつくっているようです。  私の縁遠い理由についてあれこれ言われる方々がいらっしゃいますが、私はあまり気にしていません。 「あなた、なにもかも、人並みなのにねえ」  あとに続く言葉はわかっています。 「・・・男運がないのねえ」。    私が高校一年に入った年でした。  世界史の時間でした。  季節を外れた遅咲きの桜が一本、校庭に咲き誇るのをよくおぼえています。 私が始めて “その話し” を耳にし、心の中に植え込まれた日であっただけに、その遅咲きの桜は非常に印象に残りました。  その女の先生も、教室に入ってくると、 「この教室から、桜の木がよく見えるのね」と、学生たちに話しかけるでもなく、独り言のように仰ってからその話をされたのです。 「世界の歴史は、時に革命と呼ばれるような大きな民衆の力によって、変革を遂げることが多くあります」  フランス革命の話でした。  しかし、先生の話は革命の原因、経過よりも、革命を推し進める中で、ある機器が大きな役割を果たしたとしてギロチンという死刑装置の話に時間を割かれました。  ルイ十六世の死刑執行をはじめ、多くの死刑がギロチンで行われたことなど、先生はかなり詳しくお話しされました。王妃であるマリーアントワネットが登場する場面になると、先生の話しは、ますます熱を帯びてきました。  話しの途中で、先生は突然、 「あら、このクラスにも、マリーがいるのね」と、独り言のように仰いました。  クラス全員の視線が私に集まりました。  私は、思わず云っていました。 「マリーではありません。マリです」  私に関心を集めておいた中で、マリーアントワネットが市中引き回しののち、断頭台に上るという話しは、私にとって、決して気持ちのよいものではありませんでした。  死刑執行人が、切断されたマリーアントワネットの首を高く掲げて、民衆の歓呼に応える有様を、先生は興奮気味に目の前で起こった出来事のように話すのです。  その先生の話に応えるように誰が音頭をとったのか、私のことをあまり快く思っていない学生たちがいたようです。すべてのことに、何となくテンポの遅れる私にイラついている雰囲気がこのクラスにあるのを私は感じていました。よくいわれるイジメとでもいうのでしょう。   誰かが、小声で、 「マリをだんとうだいに・・・」  語尾は尻つぼみになりましたが、少なくとも教室の全員の耳に入るように声をあげた生徒がいました。  すると、一人がそれに続きました。 「マリを断頭台に!」  少し声が大きくなりました。  数人が、それに続きました。 「マリを断頭台に!」  五人になり、十人になりました。 「マリを、断頭台に!」  教室全員の生徒が声を挙げるのに、一分もかかりませんでした。 「マリを、断頭台に!」   それは、大きな合唱になって、教室の机までもゆらしました。  始めは顔をゆるめてその有様をみていた先生も、さすがに度が過ぎると思ったのか、 「止めなさい! 授業中です!」  声をあげましたが、なかなか収まりません。  私は、ただ、耳をふさぐようにして、机の上に伏せている以外にとるべき手段がありませんでした。  やっと、収まったのは、声の大きさに驚いた、隣の教室の男の先生が飛んできて、静まるように制止したからでした。  教室の三十人ばかりの合唱に耳をふさいだ私は、ふと、本当に断頭台に立ったマリーアントワネットは、数万ともいわれる群衆の声に、どのように立ち向かい、最後を迎えたのか、興味を覚えた瞬間でした。  その先生、ギロチンのことにいやに詳しくて、教室中がシーンとしてしまうくらい、話し出すと止まらないのです。  ギロチンのスケッチを黒板にすらすらと描いてしまう指の動きなど、書き慣れている様子が見てとれます。  確かに、仕組み自体は二本の柱の間に吊るした刃を落として、柱の間に寝かせた人の首を切断するといった至極簡単なものです。かといって、死刑に使う断首台をそらで淀みなく描いてしまうことが、人に誇れる技能とは思えません。スケッチを見る人は、描いた人の今までの人生に興味を持つに違いありません。 「するどい刃を持つギロチンで切られた首は、切られた後も、何分の一秒かは意識があると云います。わずかな瞬間ですが、どんな世界をみるのでしょうね」  ギロチンで切られた首が見る世界!  先生は続けて言いました。 「十秒だけ、目をつぶってみて下さい。あなたがギロチンで首を切られたとします。研ぎ澄まされた刃であなたの首が切られました。この瞬間から、完全に絶命するまでに何分の一秒或は、何十分の一秒の時間を生きていたとすると、この瞬間、あなたは何を見るか、或は、なにを思うか、皆さんの感想を書いて下さい」 「えーっ」という声が一瞬あがりましたが、すぐに静まり返った教室には、しばらくすると女生徒の泣き声さえ聞こえ始めました。  一分ほど経ちました。  誰も感想を書こうとする生徒はいませんでした。  先生はクラス全体を静かに見回しながら思いがけないことを口にしました。 「・・・この問題、宿題としておくわ。あなたがた、ときどき、自分は宿題を背負って生きているのだということ思い出して下さいね」  この先生の言葉は次の言葉と共に私の人生を半ば決めてしまったのです。  「こうして、マリーアントワネットは、その三十七才の生涯を終えました。 一七九三年十月十六日、十二時十五分でした。小雨の落ちそうな陰鬱な日だったそうです」  ここまで話すと、先生はご自分の教科書の間にはさんであった、小さなメモ用紙を手にしました。   そのメモ用紙に目を落としながら、 「このクラスに十月生まれの人はいますか?」  授業中に突然、生年月日を聞かれるとは思いもしませんでした。私を含めて四名の生徒が手をあげました。  一人一人の顔を確かめるように見て行き、最後に私の顔に目を止めると先生は仰いました。 「・・・十六日の人はいますか」  私一人でした。手を挙げたのは。  私は確信しています。  先生が手にしているメモ用紙には、 「マリ、一九八七年十月十六日生まれ」と、メモってあったに違いありません。  でも、悪気があってなさったとは思えません。  おそらく、三十人のクラスの中に、たまたま、王妃が断頭台で命を絶たれた同じ月日に生まれた生徒がいた、よくあることですが、名前まで似ていることに、先生は興味をおぼえたのでしょう。  当然のことですが、驚いたのは私です。  自分の誕生日が悲劇の王妃が断頭台で首を切られた日と同じであることを始めて知りました。  私とその女の先生とは、過去に何の接点もありません。  高等学校に入って、最初の世界史の授業で顔を合わせたのが最初の出会いです。  その先生は、翌年、お目出度の兆候が出て、シングルマザーとして子供を育てていくとかで、学校を止められました。口さがない噂すずめが、生まれてくる子供の父親の援助をうけているらしいと、一時、クラスの中ではもっぱらの話題になりました。  数か月後、女のお子さんが生まれたという話が耳に入りました。私が背中を後ろから突かれた思いをしたのは、お誕生日が十一月二日だと聞かされたときでした。こういう方もいらっしゃるのだと、しばらくの間、信じられない因縁話を聞かされた想いでした。 ・・・マリーアントワネットの生まれた日です。  自分と紛らわしい名を持つ歴史上の人物が、人民の敵としてギロチンで首を刎ねられた月日が自分の誕生日というのは、時に話題をもりあげることもあれば、因縁話として人生に重石(おもし)としてのしかかることもあります。    私が、この偶然に神経をからみ取られる思いを持つようになった決定的な経緯をお話ししておきましょう。  翌年に高校卒業を控えた私の誕生日のことでした。  母がバースデーケーキを買ってきて、私の誕生日を盛り上げてくれるなど、ここ十年来まったくなかったことです。姉が玉の輿にのるような婚約を果たしたことが余程嬉しかったのでしょう。余計もの扱いの私にもお余りが回ってきたのです。その意図を知りながら申し訳ないことをしたと思っています。 「どうしたの、マリ、気分でも悪いの?」  切り分けられたケーキを口に出来ず、家族全員の「ハッピーバースデー」の呼びかけにも応えらない私を見て、父母のみならず、何時もは出来の良くない妹を小馬鹿にしている姉たちも、心配そうに顔を覗きこみます。  誕生日を盛り上げてくれる家族を前にして、フランスの王妃がギロチンで首を刎ねられた日だということも出来ず、なぜか気持ちに引っ掛かっていたことを聞いて、それで気持ちを立て直そうとしたのです。  「お母さん、あたし 何時( なんじ)頃生まれたの?」  思いがけない質問に母はちょっと驚いたようですが、誕生日には時に出る質問です。ここで、フランスの王妃との違いを知ることで気分を立て直したかったのです。王妃が亡くなった月日と私の生まれた月日が同じでも、比較対象するならば、記録に残る王妃の絶命時刻と私の誕生時刻まで比べてみなければ本当の意味で比較したことにはならない、窮余の一策として浮かんだのです。 『・・・真夜中の難産で周りを大騒ぎさせて、生まれるときから親不孝だったのよ・・・』  ユーモアを交えたそんな答えを何となく期待していた私を、母はあざけるように一蹴してしまいました。 「なにか、どんよりした陰気な日だったわ。 確か、昼の十二時ちょっと過ぎた頃だったかな。三人の中であんたが一番面倒ないというか、簡単に出てきちゃったのよ。 おやっと思ったらそこに転がっていたって感じ」  猫の子が生まれたように簡単にいうのです。 「あなたの母子手帳、記念に残してあるはずよ」  しかし、こんなことがあるでしょうか。私の想いを跳ね飛ばすようなことが事実として突き付けられました。  娩出日時には、昭和六十二年(一九八七年)十月十六日、十二時十五分と記録してあったのです。  記録にあるマリーアントワネットの絶命時刻と同じです。  私はふと、本当は、十二時十四分か、十二時十六分かもしれないのに、きりの良い数字にしようとの意図的なものがあったのではないかとさえ感じたのです。  マリーアントワネットがギロチンで斬首された同じ月、同じ日、同じ時刻に、国と年度こそ違え、ひとつの女の生命体が生まれたということです。  勿論、世界的に見れば、同様の現象が数多くあったに相違ありません。  しかし、その生命体が二十数年後、勤務先の健康診断で背の高さを一五四センチと記録されたとなると、当事者としてかなり複雑な気持ちになることは理解して頂けると思います。  記録に残るマリーアントワネットと同じ身長です。  もう、私は驚いたりはしません。王妃の体重が記録に残っていないかと探しているのですが、どなたかご存じの方がいたら教えて下さい。  ここまでくれば、毒を食らわば皿までもの気持ちになりました。  マリーアントワネットの死亡時刻、十二時十五分はどの瞬間をさすのか知りたくなりました。  ギロチンは四メートルの高さから四十キロの刃が自由落下することによって首を切断します。この落下時間は、零コンマ何秒というくらいでしょう。 多くの書物に「準備するのに四分かかり、刃が落とされたのが十二時十五分」とあります。 王妃が落命したのも、この時刻としているようです。  もうひとつの測定可能性として、切断された王妃の血のしたたる首は、桶の中から死刑執行人によって「取り上げられて」群衆の前に、たかだかと掲げられるのですが、この時刻が十二時十五分とする方法もあったわけです。  でも、首が「取り上げられた」時でなくてよかったと思いました。私が母親の胎内から出て、“取り上げられた時” につながるのが、何もそこまで、という気持ちがうすうすあったのは事実だからです。  私が始めて、「その場所」を訪れたのは、英語関連の専門学校を卒業し、中堅どころの商社に就職して、三年ほど経った時でした。  ヨーロッパを旅行するなどという、贅沢な時間を持つには、経済的に、それだけの時間が必要だったのです。  海外旅行で、心の底に淀むものを一度整理して、自分の生き方を考えてみる機会にしたいと思った理由がもうひとつありました。  半年ばかり付き合っている波長の合うボーイフレンドがいて “ホテルに誘われたらどうしよう”とちょっと恥ずかしい期待を込めて、そのときの応対方法を思い描き始めた頃でした。  誘われたバーで、二杯目のハイボールを空けたときでした。  突然、「マリさんの趣味は?」と聞かれました。  恐らく、近づいている私の誕生日に、何か贈りものをと思って聞いたのに違いありませんでした。  素面(しらふ)のときでさえ、十月十六日が近づくと、自分の誕生日のことよりも、私はマリーアントワネットの最後のことしか頭に入らなくなります。ましてや、アルコールが入っていました。 「マリーアントワネットの生首」と、のどまで出かかって、さすがに、堪えるだけの意識は残っていました。  しかし、代わりに「ギロチン」と、口から洩れていたのです。  あっと気付いて、誤魔化そうとしたのですが、口から落ちたものを拾い上げるわけにいきません。運が良かったのか悪かったのか、このボーイフレンドは、ギロチンを知りませんでした。 「それ、なに? なにかアクセサリー?」と聞いて来るのです。  ギロチンを知らない人がいる!  これ幸いと、誤魔化してしまえばよかったのです。アルコールが入っていて、そこに神経が回りませんでした。私にとって、ギロチンを知らない人間は、驚きでもあり、未開人種と同じようなものです。憎からず思っていたボーイフレンドがギロチンを知らないとしって久しぶりに手ごろな教育対象が現れたと欣喜雀躍してしまったのです。 「あなた、死ぬとき、一秒の何分の一かで、首を切られて痛みなく死ぬのと、病気になって苦しみぬいて死ぬのとどっちがいい?」  ボーイフレンドはヨーロッパの変わったアクセサリーの話しでも出るのかと、ジョニ赤のオンザロックを前に、笑顔で待ち構えていたのです。  思ってもいなかった話しだったのでしょう。 「マリさん、少し飲み過ぎた?」  顔色を変えて、恐る恐る聞いてきました。  私は決して飲み過ぎたわけではありません。こういう話をする時には、少し気持ちを大きく持った方が良い、私はボーイフレンドのジョニ赤に目をやって、 「ううん、平気、もう一杯頂きたい気分。あなたと同じものでいい?」  逡巡する顔に吹きかけるように云いました。  ボーイさんが持ってきたジョニ赤のオンザロックに口をつけながら、 それからの三十分間、私は、ギロチンについてのうんちくを傾けました。 「フランス革命でギロチンで処刑されたのは一万六千人と云われているの。ギロチンは痛みを感じさせないで人を処刑できる、非常に人道的な処刑装置。あたし、高校時代に教わった先生の影響で、永遠の宿題を抱えているの。優れた刃を持つギロチンで切られた首は、切られた後も何十分の一秒か生命力を持つといわれているの。完全に生命を失う、何十分の一秒の間、なにを見るか、なにを思うか、これを確認したいの、これが私の宿題」  理想的なギロチンをつくれば、死の瞬間に理想の世界を目にして幸せに死ねる・・・。 「人生最後の瞬間に数十秒の一かもしれない時間に、生きた何十年かを再び生きてあの世に旅立つかも知れないのよ。平穏な死は平穏な世界に導いてくれます!」  優れたギロチンの活用は世界の平和にもつながる・・・、少し酔いの回った思考から繰り出される飛躍した私の論理に、彼は、青ざめた顔で聞き入っていました。  こうして、ボーイフレンドを失い、私は始めての海外旅行に出たのです。 「マリーアントワネットの足跡を訪ねて」の一週間のパリ旅行は、それなりに有益でしたが、季節は夏、私が暗に求めていたものとは違うものでした。  ベルサイユ宮殿や、トリアノン宮殿におけるマリーアントワネットは、私にとって、別世界の女性です。ここでの生活、さまざまの事件が、彼女の断頭台への道につながるのでしょうが、私の関心は死刑判決がでたあとのマリーアントワネットです。敢えて言うならば、ギロチンの刃が王妃の首に食い込んで行った後のマリーアントワネットです。  刑が執行されたあと、王妃の遺体は、すぐ近くの共同墓地であるマドレーヌ墓地に放り込まれました。  埋葬命令が出ぬまま、彼女の生首は、十二日間、遺体の両足の間に投げ捨てられた状態で草むらに放置されたままだったといわれています。  後に、この場所に贖罪礼拝堂が造られ、マリーアントワネットと夫のルイ十六世は手厚く葬られることになります。しかし、更に後年、二人の遺体は、フランス王室の歴代の墓所と呼ばれるサンドニ大聖堂に移されます。実際には、この時、王と王妃の墓には僅かな肉片らしきものしかなく、遺体の痕跡は殆ど残っていなかったと言われています。アントワネットの遺体は十二日間のあいだに、ほとんど腐食してしまったのでしょうか。私には、かたちだけの王室墓所よりも、刑死後、十二日間を過ごした、マドレーヌ墓地に、その上に建てられた現在の贖罪礼拝堂に、限りない執着をおぼえるのです。  この観光ツアでは、贖罪礼拝堂は観光ルートに入っていませんでした。  フリータイムには、他の人たちは、王妃が裁判の間閉じ込められていた、コンシェルジェリー牢獄などを回るようでしたが、私には、彼女が生きている最後の数日よりも、斬首されてから放って置かれたという十二日間にどうしても惹かれるのです。  しかし、真夏の観光シーズンは、贖罪礼拝堂にも、結構、見る人々が多く、私は、礼拝堂内にある「ルイ十六世と天国を指し示す天使」像と「たゆまぬ信仰に支えられるマリーアントワネット」像にむかって、日本流の、手を合わせてのお祈りをすると、「また、戻ってきますからね」と、心でささやき、その場をあとにしました。  私が、自分自身が計画した “マリーアントワネットの足跡”を辿ったのは、それから三年後でした。  十月十五日午前中に日本を発ちました。  始めたばかりのスマホを持ち、再び行けるかどうか分からぬ、マリーアントワネットの足跡を映像に残しておきたいと、それなりの覚悟をもってのパリ行でした。  時差の関係で、同日夕刻にはパリのコンコルド広場に近いホテルにチェックインしました。  コンコルド広場は嘗て革命広場といわれ、処刑を行なう刑場でした。マリーアントワネットや夫のルイ十六世がギロチンで処刑された広場です。  明日の、マリーアントワネットを偲ぶ日を前にして、その最後の場所の近くで一晩を明かすことが出来るのも、やはり、三年前の団体旅行が与えてくれたゆとりです。あの旅行は無駄ではありませんでした。    十月十六日。  私の誕生日。  マリーアントワネットの祥月命日。  贖罪礼拝堂の敷地に入った時から、私は心の安らぎを感じていることに、やはり、この場所に来てよかったとの思いに浸されました。  マドレーヌ墓地の跡地に建てられた贖罪礼拝堂。  約二三〇年前、ここは単なる共同墓地に過ぎませんでした。  私は既に空想の世界に入っていました。頭の中で、後年建てられた礼拝堂など、多くの建造物を消し去ると、そこには、革命時の荒廃した風景が現れます。草木が生い茂り、果てが見渡せる、荒れた庶民の共同墓地に私は立っています。  その草地に首のない王妃の遺体を放り出し、伸びた両足の間に、切り取られたばかりの血のしたたる生首を挟んで置き、昼食をとりに行った死刑執行人たち。  赤ワインを飲みながら、パンやチーズを腹に詰め込む男たちにとって、放り出してきた首なしの女の死体は、コンコルド広場で処刑された千三百人ともいわれるギロチンによる刑死者の一人にすぎなかったのでしょう。  王妃の首を切るのも、日々の仕事の一環でしかない彼らと対照的に、私にとっては、その生首は唯一無二のものでした。彼女の生首が、自分の両足の間にはさまれて放置されていた十二日間。腐敗がすすんでいく様を想像すると、居ても立ってもいられない気持ちになります。  ふと、首なし死体の身長はどのくらいだったのだろうかと、おかしなことを考えます。  一五四センチマイナス、頭と髪の毛の量。  このようなことを考えながら、私は王妃の“生首”と空想の中で一時間余りを過ごしました。  時間の経過とともに、辺りに漂う王妃の好んだという薔薇の香水の香り。私はホテルを出るときに、恐らく王妃が処刑台に登る時につけていたに違いない、薔薇の香水をまとってきたのです。その香りが周囲を染めて、私は王妃との “最後の時間” を共有する幸せに浸っていました。 ふと、誰かに話しかけられているような思いに、思わず「マリー!」と、声を挙げていました。私は意識しなかったのですが、やはり、実際に声をあげたようです。  二三メートル離れた場所に立っていた金髪の、私と同年配くらいの女性、笑みを含めて何やら話しかけてきます。  私はフランス語は分かりません。 「イングリッシュ?」(英語は?)との私の問いかけに、その女性は軽く首を横に振ると、「ボンボワイヤージュ」(良いご旅行を)と、私にも分かるフランス語を残して入口の方に立ち去ります。裾まで広がる白い長いドレスを引きずるようにして、いつの間にか、女性の姿は消えていました。  この日、私には次の目的がありました。そのために、また訪れる日を約して、礼拝堂を後にしました。     あるパリの観光案内に、シャンゼリゼ通りに近い、コンコルド広場寄りの公園の一角に桜の老木があり、この桜の木はギロチンでの処刑を見ていただろうかとの記述がありました。この老木を訪ねるのが、この日の、私の次の目的でした。  桜の木の平均寿命は六十年といわれているようですが、これは、あくまでも、手入れに時間を割かなかった、人間の怠慢によるものだそうです。私たちは自国で五百年、六百年の桜を目にすることも出来ます。革命広場を見渡せる位置にある桜が、王妃の処刑を目にしたとしても、不思議ではありません。 この桜の木に、マリーアントワネットの処刑の瞬間をみていたのかどうか、聞いてみたかったのです。  老木と一言二言でも「秘密の会話」が出来るかもしれない。それがこの度の旅行の楽しみの一つでした。  私は、やっとのことで、シャンゼリゼ通りの一角、コンコルド広場に近いところの公園に、桜の老木を見つけることが出来ました。  十数年前、学校の庭に咲く遅咲きの桜に心を奪われた、あの瞬間を思い出していました。そういえば、世界史の先生も、窓越しの桜に目をやっていましたが、あの日の先生の講義が、いま自分をこの場所に立たせている、そう思うと、二人分の想いを込めてこの老木を心に刻もうと、歩みを進めて行きました。  シャンゼリゼ通りを歩く東洋系の人々の数は、きっと、年ごとに増えているに違いありません。しかし、その片隅の桜の老木に興味を持つ者はどのくらいいるでしょう。ましてや、季節を外れた桜の木に関心を示す人など皆無に違いありません。  ですから、私が歩む先に、枯れ木にも似た桜の老木を、愛おしそうにさする東洋系の中年の男の人を見た時には、驚きと共に、一体どんな人だろうと、一瞬歩みを止めてしまいました。  その中年の男の人は、後ろから近づく私の気配を察したのでしょう。 「この桜、コンコルド広場の出来事をすべて見ることができたのですね」  私の耳にも入る声音でひとり言のように云いました。  やはり、異国で聞く日本語には胸に響くものがあります。わずか一日前に 故 国( くに)を出たというのに。  周りには誰もいません。  私だけです。  男の人は二三メートルの距離で私と向きあうと、 「春になると、花を咲かせるそうです。一度、見たいものです」  そういうと、更に続けました。 「先ほど、贖罪礼拝堂でもお見かけしました。この国の歴史にご興味がおありですか?」  この人、私をつけてきたのでしょうか。  思わずそう思いましたが、つけられてもそれほど不快な思いをする人物でもありませんでした。  聞いてみたいのはむしろ私の方でした。季節外れの十月にどうして桜の木になど興味を示すのでしょうか・・・・?  贖罪礼拝堂を訪れたということは、この礼拝堂が革命の犠牲者を葬ったマドレーヌ墓地の跡地に建てられたことを知っており、当然フランス革命に関心があり、マリーアントワネットにも興味があるに相違ありません。  そんな思いが頭を駆け巡ると、既に口の方が動いていました。 「・・・今日、わたしの誕生日なのです」  フランスの歴史に興味があるかと問われて、初対面の女性が返す言葉でないことは百も承知です。精神状態を疑われるかも知れません。  しかし、これで分からなければ、それまでのこと。  私が相手にする男性ではありません。  そんな思いで口に出したのですが、その人の反応は素早いものでした。 「それで、贖罪礼拝堂にお出でになったのですか。お生まれになった月日があの方の命日と同じというのは、単なる、巡りあわせではありません。・・・ひとつ、お伺いしたいことがあるのですが、贖罪礼拝堂で、どなたか、金髪のご婦人とお話をされていましたが、どなたでしょうか? お差し支えなければお聞かせ頂ければと思います。・・いや、本当に失礼なことをお尋ねして申し訳ありません」  これは、私の方の記憶があいまいでした。  そう言われれば、礼拝堂でどなたかに話しかけられたようですが、そのご婦人は「ボンボワイヤージユ」とか挨拶だけでどこかに行ってしまった・・・。あのご婦人はどなただろう? 私は、その曖昧な記憶を男の人に伝えると、 「そうですか、私は一瞬あの方の亡霊かとおもったのですが、あの方のご遺体は、既に、フランス王家の方々が葬られているサンドニ大聖堂に移葬されていますので、可能性としては薄いとおもっていたのですが、いや、失礼なことをお伺いしました。・・・ご挨拶が遅れましたが、私は・・」  差し出された名刺には「心霊現象及びGT研究所・代表」とありました。 「GTは、もしかして、ギロチンのことでは・・・?」  私の知っている数少ないフランス語のスペル、guillotine から類推したのですが、推測は的を射ていたようです。  私の問いに、その方は驚いたように肯定の身振りをなさると、 「お約束がなければ、ぜひ今夜、お誕生日祝いの真似事でもさせていただきたいのですが」  その夜、私は、その男の人にホテルでシャンパンを抜いて誕生日を祝ってもらいました。  夜の更けるまで、マリーアントワネット、フランス革命、そしてギロチン談義で盛り上がりました。誰に遠慮することなく、ギロチンを語り尽くしました。  東京に帰ってから、私は彼の招待に応じて、山中湖の別荘に行きました。 別荘は、還暦をすぎたお手伝いさんと、娘が週末に来るだけだから自由に使って下さいと、仰って頂きました。  男の人が「仕事場」と称する別荘の地下室には、まさに彼の言葉通り、出来上がっているギロチンが二台。  製作途中の最新機能を盛り込んだというギロチンが一台。  この方は、これをお仕事としてやられているのでしょうか。  この装置を必要とする場所がこの国にあるのでしょうか。  博物館は別にして、私ははじめて、本物を目にし、しかも触れることが出来ました。  男の人は、人間には当分使う予定がないと残念そうな口ぶりでした。 しかし、「当分」ということは、過去には人間に使ったことがあったということなのでしょうか。    その男の人は、私がマリーアントワネットに関心を持ち、ギロチンに興味を抱くようになったきっかけをパリでお知り合いになった当初から知りたがっていました。マリーアントワネットはともかく、ギロチンそのものに関心を持つ女性は珍しいのでしょう。  この質問に対して私ははっきりしたご返事をしていませんでした。あの教職にあった先生のお名前を出すことになりかねないからです。  しかし、本物のギロチンを目の前にして、私もすべてをさらけ出す気持ちになりました。  私の答えは簡単です。高等学校時代の世界史の先生がすべての始まりです。先生との出会いから、校庭に咲く桜の木のお話まで致しました。  私がその事実を口にすると、男の人はふと考えているようでしたが、娘を紹介しょうと仰ってお嬢さんを呼ばれました。  十二三才くらいの目の大きい、おさげ髪の可愛い女の子でした。  挨拶を交わしているうちに、私は、なにか、目に見えない圧迫感をその女の子から感じ出したのです。見たことのある顔つきです。 「・・・せんせい!」  思わず声を挙げました。高校時代の女の世界史の先生にそっくりのお顔です。シングルマザーとお聞きしましたが、この男の人が・・。 「彼女は私の協力者でした。あまり躰が丈夫でなく、この子を産んで間もなく亡くなりました」  そして、私の袖を引き、お嬢さんから離れ、富士が正面に見えるベランダに私を誘うと、呟くように仰いました。  「・・・最後まで協力してくれました。・・・あの桜の木が知っています」  さくら? 私の表情を読み取った男の人は、 「この県の県花はフジザクラという、桜なのです」  ベランダの前の数本の樹木が桜なのです。 「東京とくらべると少し遅い春になりますが、あの桜の木々と枝越しに見える富士はこの別荘の魅力の一つです。彼女は桜を見るために春にはよくここにきていました」  コンコルド広場の近くにある桜の老木を撫でるように慈しんでいたこの男の人は、広場での惨劇を尋ねると同時に、亡くなった女の先生の想いでにも浸ったのかもしれません。  男の人は、声は落としましたがはっきりした口調で、 「身体から切り離された首が、笑顔を見せることをあなたは信じますか? ・・・・死の世界に足を踏み入れる僅か数十分の1秒の間に笑顔を見せることが可能だったのです」  この人は、自分の ”創った” ギロチンが完ぺきだったことを誇っているのでしょうか。 「完璧なギロチンで首を切断された人間は、絶命するまでの数十分の一秒の間に、生きてきた一生を悔いなく生き直して絶命する・・・、絶命の瞬間、笑顔を見せるのはその証です」   ・・・最後まで協力してくれた・・・  男の人は、残念そうにこの言葉を二回ほど繰り返しました。  先生を未だに愛しているのではないか、そんな思いを抱かせる口調でした。  私は、先生の「宿題」に回答を出すために、半生を生きてきました。そして、やっとここに “たどり着いた“ といった気持ちです。  男の人から、マリーアントワネットの月命日には、この別荘で過ごしてみたらどうかと提案されました。  私はこのお話をお受けし、毎月十六日にはこの別荘に寝泊まりすることになりました。お手伝いさんや時には英語を教えて下さいとお嬢さんも来られます。  地下室では、時々顔を出す別荘の持ち主である男の人がギロチンの製作に余念がないようです。いつか使われる日を予定しているのでしょうか。  この別荘で一晩を明かすと、その夜、私は決まったようにマドレーヌ墓地で、足もとまで全身に白衣をまとった金髪の女性の夢を見るのです。昨年、贖罪礼拝堂でお目にかかった女性のようですが、お顔の記憶がまったくなく、夢の中でその方は、「ボンボワイヤージュ」(良いご旅行を!)とつぶやいて姿を消してしまいます。その方が去ると、お顔をまっすぐに見てお目にかかっていたはずなのに、お顔の記憶がまったく残っていないのです。目の色、鼻のかたち、ぜんたいのお顔の表情など、空洞ができたように私の記憶から、すっぽり抜け落ちているのです。  ・・・その方が裾を翻し数歩歩かれて消えるように目線から去った後には、草むらに放り出されたマリーアントワネットの首なしの遺体がころがり、両足の間には、ギロチンで切断された女性の首が挟まるように置かれているのです。  この光景は、夢の中で私が待ち望んでいるもので、翌朝の目覚めも心が洗われる思いに浸ることが出来るのです。  そして、目覚めとともに、その方が必ずお口にされる「ボンボワイヤージュ」(良いご旅行を!)のひと言が思い出され、どこへ、なぜ行くのか、知らぬままに、旅立ちの日を夢見ている自分を見出すのです。  月に一度訪れるそんな夜が何回か続きました。  そんなある日のことでした。  わたしのスマホを脇から覗いていた、お嬢さんが、 「マリさん、その写真ずいぶん古い写真ね。どこのお墓?」 と尋ねるのです。  改めてスマホをチェックしてみると、確かにお墓の写真です。荒れた草木に囲まれた墓が写っています。見たことのある風景です。すぐに思い出しました。昨晩この別荘にお世話になった時に、いつものことなのですが、夢の中で見るマドレーヌ墓地に間違いありません。 「お嬢さん、これはいつか私がお話ししたマドレーヌ墓地のようです」 私は事実を申し上げたつもりでしたのに、お嬢さんはあきれたように私の顔を見つめます。。 「マリさん、どうかなさったの? マドレーヌ墓地は無くなってそのあとにあの礼拝堂とかが建てられたって何時だかお話になっていたでしょう。無くなった墓地がどうして写真に写っているの。あら写真の日付けは昨晩よ。マリさん、昨晩はこの別荘に泊ったのでしょう?」  お嬢さんの言うことは間違いありませんでした。  スマホには、古い写真で目にするようなセピア色の墓場の写真が写っているのです。夢の中でみていたマドレーヌ墓地です。  スマホはいつも枕元に置いて寝るのですが、夢で見る風景を写し取るスマホなどこの世の中にあるのかと、私は少し、見当はずれのことを思い描いていました。 「夢の中の出来事を写してくれるなんて魔法のスマホみたい!」  少し、はしゃぎ気味にいう、三十歳に手の届く女の言葉に、お嬢さんはあきれ気味に、 「マリさん、先月の十六日にも泊っているでしょう。その日のスマホをちょっと見せて頂ける?」  趣味らしい趣味もなく、友達らしい友達もいない私には、スマホを使う機会などほとんどありません。余程のことがない限り、スマホ自体を持って外出することがあまりないのです。作年のパリ旅行の時に、少しでも記念になるもを撮っておこうと、姉の勧めで、カメラ代わりにスマホを買い、それなりの写真を写してきました。二十一世紀のコンコルド広場やマドレーヌ墓地の跡地に建てられた贖罪礼拝堂の写真は撮ってきましたが、それだけのことで、日本に戻ってからパリ旅行の写真を繰り返し見てみるような趣味もありません。  ですから、お嬢さんに言われて、ひと月前の十六日のスマホに、何時も夢に出てくるマドレーヌ墓地、そして首なしの死体が写っている写真が数枚あるのを見た時には、大きな驚きと、そして何か胸につまるような感動を覚えたのです。  しかし、お嬢さんに見せるべき写真ではありませんでした。スマホに写った女性の生首の写真を脇から覗き込むように見た時には、お嬢さんは、さすがに大声を挙げました。  私は、スマホをお嬢さんから隠すようにすると、 「あらっ、フランス人形の写真が写っている!」  気の利かない私にしては一世一代の機転でした。  ギロチンを造るくらいのこの別荘の持ち主は、高価な美術品として扱われている、19世紀に作られた有名なジュモー工房のフランス人形を部屋のあちこちに飾っていました。頭部が陶磁器で創られていて、さまざまの表情のものがあり、種類も豊富です。愛くるしいものだけでなく、中には子供の等身大くらいの、かなり不気味なものまであります。 「マリさん、人形の写真じゃないわ! もう一度よく見せて!」  頭のまわりの早いお嬢さんをごまかし通せることなど出来ないことをよく知っている私は、半ば、夢うつつの状態でスマホをお嬢さんに渡しました。その時、なにかわかりませんが、私はある種の感動に浸りかけていたのです。    夢に見るマリーアントワネットの首なしの遺体、そして、その生首は、私にとって愛おしさそのものです! しかし、翌朝になれば、それは、私の視界からは消えており、次に夢見る夜がくるまで頭の中で、或いは心の中で単なる幻想として残っているに過ぎません。  しかし、スマホに残されているとなると!  遺体と生首は消えることなく、スマホを開けば、何時でも私に寄り添ってくれます! 二百三十年の歳月を越えて、日夜、王妃に合うことが出来る!  私がそのような思いに浸り始めていた時、スマホを持つお嬢さんが突然大声をあげました。 「ああっ! 動いた、写真の手が動いたわ!」  首なしの遺体の手が、両足の間に転がる生首に手を伸ばしかけているのです。  女二人の大声が耳に届いたのでしょう。地下室から別荘の主が上がってきました。   意気地なく、口がきけない私に代って、お嬢さんはスマホに写っている墓場の写真の説明をしました。  頂いた名刺によれば、ギロチンに加えて心霊現象の研究をしているということですから、いま私たちが目にした不可思議な現象、そして、もしかすると私の心の内にある、マリーアントワネットの遺体と生首に対する恋慕にも等しい思いを解き明かしてくれるかもしれないと、私は期待を込めて、男の人を見つめていました。  聞き終わった男の人の顔色は血の気が引いたように青くなっていました。  私に向けられた言葉も意外なものでした。 「マリさん、あなたは、三十七歳、即ちマリーアントワネットが亡くなった年まであと何年ありますか」  私はそれを頭に刻み込んで生きてきていますから、淀みなく答えられました。 「六年三か月と十日です」 「それまで、この現象は続くと思って下さい」 「それまでって、どういう意味でしょうか?」 「申しあげたとおりです・・・」  そして、私を促し、ベランダに誘いました。お嬢さんには聞かせたくないことのようです。 「マリさん、あなたはマリーアントワネットの年に達した時に、その年の十月十六日、十二時十五分にこの世から去る覚悟をされています。ギロチンという手段を希望されていたのが、私という適役を手に入れることが出来ました。私も覚悟しております。喜んでお手伝いいたします。それまでは、毎月十六日は、充分に革命時代のパリをお楽しみ下さい。そして、それをすべて記録に撮ってください。その記録をすべて私に残してくだされば、私はマリさんがご希望されているギロチンを完成させ、最後の瞬間、できれば一秒という長時間、あなたの一生を生き直す機会を提供したいと思います。勿論、あなたは最後の瞬間に笑顔を見せて王妃の許に旅立ちます」  毎月訪れる十六日、私は、革命時のパリでマリーアントワネット王妃とお話しする機会を探ってみたいと思っています。そして、私の行き着く場所を準備していて下さるよう、お願いしてみるつもりです。  何時も夢に現れる白衣を着た女の方が口にする「ボンボヤイヤージュ」(よいご旅行を)の意味が少し分かったような気がしました。  十八世紀のパリへの旅立ちをお待ちしているということではないでしょうか。私の勝手な思い過ごしでしょうか。                           (終わり)            
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