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屋上に来た。いつもと変わらない場所。たまに僕が酔っぱらって寝てしまって、朝を迎える場所。前野君が呪術のこもったお札を落としていった場所。
いつだったか七輪でサンマを焼いていて、火事だと通報された場所。
うーん、冷静に考えるとロクな思い出がない。
気を取り直して空を見る。雲の切れ目から月がのぞいていた。
「……今夜は月が綺麗だね」
ふと口にする言葉。
「今なら手を伸ばせば届くかもしれませんね」
ぽつりと愛理がつぶやく。
このやりとりは──ご存知の方もおられるかもしれないが、かつて文豪の夏目漱石が「I LOVE YOU」を「月が綺麗ですね」と訳したというエピソードがあり、「月が綺麗ですね」は、「あなたが好きです」という意味である。愛理の答えた、「手を伸ばせば届くかもしれません」は、あなたの気持ちがわたしの心に届きそうですよ、という意味が込められているらしい。
そして残念なことに、この二人はその言葉の真意を全く知らなかったのであった。
「それで、話って?」
柵に肘でもたれかかり、火のついていないくわえタバコで愛理を見る。
思いつめたように一点を見つめる愛理の横顔は、お酒のせいもあるのだろうか、ほんのりと紅色に染まっている。夜の黒と雪の白にライトアップされたような神秘性さえ感じた。
「所長」
揺らいだ瞳。風に揺れる前髪を指先で押さえる。その仕草は呼吸を忘れるほど心臓が高鳴る。陳腐な言い方をすると、時よ止まれ。と願ったほどだ。
愛理の体が小さく震えている。
緊張のせいだろうか、いや雪の降る夜だ。凍えるほど寒いのだろう。
「愛理」
自然な形で抱き寄せる。さらさらの黒髪が舞い、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
腰に回された愛理の華奢な腕に、ほんの少し力が加わる。
触れ合った体温と、心臓の鼓動を互いに意識する。
愛理の肩をつかみ、ほんの少し、体を離した。
見上げる愛理の潤んだ瞳とピンクの潤う唇。
その距離はやがて徐々に近づき……。
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