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「あっ!」
突然愛理が、何かに気づいて走り出した。
僕はといえば、眼を閉じてタコのように突き出した唇が空を切っている有様だ。
いやあ絵でお見せできなくて残念だけど、こんな姿を誰かに見られたり、ましてや自分で見直すことになるとすれば、そのたびに僕は悶絶する羽目になるだろう。
いいからいからっ! 決して鏡とか持ってこないでくれたまえ!
「所長、しょちょう!」
愛理が目を輝かせて何かを抱き抱えている。
なんだろう。……猫?
愛理が抱えているのは、作りものではない本物の猫だった。
「こんな冬の寒空に?」
疑問が浮かぶ。ずっとここにいたのだろうか。どことなく気品漂う黒猫だ。 よくみると左目が青で右目が淡銀灰色。こういうのなんていうんだっけ? オッドアイ?
「ね、猫だねぇ。屋上に迷い込んだのかな?」
いつからいたのだろう。不明だが、寒そうに凍えている気配がない。凛とした姿勢は高貴な印象さえ感じる。
「メスみたいですね。寒そうだし、事務所に連れてってもいいですか?」
「え? あ、ああ。まあ大家さんからも許可は出ているからね。この寒空に放置するのもかわいそうだし……」
「よかったね、『くうたろう』」
もう名前をつけている。くうたろうと呼ばれた黒猫は「ナーッ」と返事をした。
「まだ飼うかどうかはね、大家さんにも相談しないと……」
「早く行きましょうよ、しょちょう」
愛理は嬉しそうに、事務所の階段を駆け下りていった。
話って何だったんだろう。いい雰囲気だったんだけどなあ。
やりようのないモヤモヤを抱えたまま、事務所に戻ってきた。
「せんせぇ、はやかったれすね?」
前野くんもすっかり酔っぱらっている。というか、僕がもらったはずの『天狗の舞い』が開封されているし。
「いや私はね、うん。止めたんだよ、うん」
という小森さんの手には、並々と注がれた透明な液体で満たされていた。
まあアナタからもらったものだからいいですけど……。
「自分は酒は苦手なんスけど、日本酒だったら飲めるンすよ」
自信満々で言う上野さん。うん、そんなことは聞いてない。
「大家さん」
なぜか胡坐をかいて、ネクタイを頭に巻いている大家さんに、愛理が駆け寄った。すでに"へべれけ"だ。
……なぜ僕のネクタイを頭に?
「この子、事務所で飼ってもいいですか?」
単刀直入、ストレートな問いだ。
「大丈夫らよ、あたひゃ酔ってなんかれないよ。猫? ウヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」
「所長、大家さんが許可してくれました」
「マジか!?」
てか、ルビで返事するのやめてくれませんか大家さん。そしてそれを解読する愛理も凄いね。猫に対する執念というか……凄いもんだね。
「よかったね~くうたろう」
「ニャ~♪」
心なしか嬉しそうだ。餌の手配からベッドから、考えることは多そうだけど、まあ構わないさ。探偵事務所に家族が増えたようなもんだ。
「宜しく、くうたろう」
「……」
ぷいっ。と横を向かれた。
なんでだよっ! 僕は無視なのかっ!
「所長も気にいってもらえてよかったですね」
「そ、そうかな? そうは見えないけど……」
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