第1話

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第1話

 白昼夢を見ていた。  でも眠っているんじゃない。ぼんやりとして、先が見えない道を歩いているんだ。目的地は全然みえないし、あるのかもわからない。  周りを眺めると他にも歩いている人がいる。俺と同じ上下のビジネススーツを着ている男性もいれば、カジュアルな服装の女性もいた。  誰しも苦しそうな表情を浮かべている。歩いて歩いて、そのうち限界が来た者から順に立ち止まり、空を見て(うめ)き、地面を見てため息をつく。  だがそれは長い間の休憩じゃない。ある者はきつく前を見つめ直し、ある者は靴の紐を締め直し、ゆっくりと足を前に踏み出す。  俺もそうありたい。この道は立ち止まったり、後ろを向いて戻ったりはできない。わずかだけでもいいから、先に進み続けなきゃならない。  それが道に乗ることを選んだ者に科せられるルールだから。 ―――――― 「武智(たけち)!! おい、武智、お前だ! こっち来い!!」 「……え、え! あ、俺?」  パソコン越しに、島ひとつ先に座る中年社員の薄い頭を眺めていた俺は、自分を呼ぶ大声にビクッとした。  誰に呼ばれたかはすぐにわかった。相手の名前は(つき)ハゲ。俺の上司で、課長で、いまは相当怒っているみたいだった。でなきゃ人間あんな風にやたらと怒鳴ったりしない。  俺は急いで立ち上がった。けれど焦っているときは全てがうまくいかない。勢いで自分の椅子が滑り、後ろの先輩の背もたれに思い切りぶつかった。 「おい! 何すんだよ!」先輩の怒りの声。 「あ、すいません!」先輩にペコペコと謝っていると、すぐに次の怒号が飛んでくる。 「ターケーチ! 早く!」  俺は慌てて走っていき、上司のデスクの前に立って姿勢を正した。  月ハゲはまず、挨拶代わりにYシャツの上から俺の右肘の辺りをバシッと叩いてきた。 「呼ばれたら返事ぐらいしろ! それにすぐに来い! 俺は暇じゃないんだぞ」 「はい……」語尾が消えていく。返事はしたものの、それはただの反応で同意したわけじゃない。  課長の職にいる人間が暇では確かに困る。でも俺だってサボっていた訳ではない。昨日は少し遅かったから、ちょっと眠気と戦っていたというだけだ。  こうして課長の前に立っていると、いやでも相手と面と面を向ける事になる。はっきり言って俺は月ハゲが好きではない。上司といえどなるべく目を合わせたくないと思っている。けれど下を向けばまた「こっちを見ろ!」と叱られる。だから今は顔を上げるしかない。  情けないと思わないでほしい。何度も怒られているおかげで、こんな時にどうしたら良いのかコツがわかってきた。顔だけきちんと相手の方に向けるようにする。視線は上司の鼻頭の少し下あたりがいい。  そうすれば課長からは、俺がしっかりと顔を上げているように見えるらしい。このことに気づいてから、視線が理由で上司にクレームを出される事は、ほとんどなくなった。  ただこの作戦にも短所がある。どうしても相手がぶら下げているネームホルダー――ぽっこり出た腹の上にある――が視界に入ってしまうのだ。「課長 月羽(つきはね)」と書かれた社員証にプリントされた中年男のポートレイト。禿げたおっさんに脂っぽい営業スマイルで微笑みかけられるのときつい目で睨まれるのは、どっちが楽なんだろうか。  俺がまさかそんなことを考えているとは、月ハゲはまったく気づいていない。彼の頭の中にあるのはたったひとつ。  この心から憎らしい部下をどうこらしめてやるかの論理だけだ。  月ハゲが尋問を始めた。「昨日お前がメールしてきた企画書。なんだ、こりゃ? 書きかけを間違えて送信したんだよな。『はい、そうです』って言ってくれるよな?」  神経質な課長は、机の上の液晶モニタのホコリのひとつも見逃さず、イライラと指で弾いた。 「いや……完成したんで送ったつもりっす」俺は少しムッとして返した。 「笑えない冗談だ! なあ。教えてくれ。どの口がこれで出来上がったっていうんだ? 見ろ。いきなり表紙のページから変テコじゃないか……社内ポータルの案内文書、毎日見てるよな? おい、聞こえてるのか! 会社から社外に出す正式な文章の標準書式、毎年更新されているって知ってるだろ。今期始まって何ヶ月経ってると思ってんだ! 昨年の書式で企画書かいてくる奴は、俺の部下でお前だけだぞ。この時点で読んでもらう気ゼロだよなぁ? なぁ?」 「え……あ……気づかなかった……です」 「気づかないで済むか! この馬鹿野郎!!」  月ハゲはマウスを激しくクリックし出した。そのたびにディスプレイに映し出された企画書のページが飛ぶようにめくられる。「これも、これも、すべて駄目! 【目的】も【目標】も【方針】もぐっちゃぐちゃじゃないか! なあ、教えろよ。お前は国語が苦手なのか? 学校で作文ぐらい書いたことあるだろう。それとも苦手なのは部屋を片付ける整理の方か。なあ、どっちだよ。両方か?」
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