第二話

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第二話

 午後八時をまわり、人影もまばらなフロアであくびを噛み殺す。  連休前の金曜日ということもあって皆そそくさと逃げるように帰っていった。課長の美山真二も例に漏れず、見積もり作成を依頼するメールだけを寄越し、気がつけば鞄ごと姿を消していた。  これといった用もなく家で誰かが待っているわけでもない。美山に対して恨めしい気持ちはなかった。むしろ、今はいくらでも仕事を振ってくれとさえ思う。  ひとり抜けふたり抜け、営業部第三課の島の最後のひとりになったころ、忠俊はキーボードを叩く手を止めた。  振り返ってみれば一課の島には誰も残っていなかった。  営業部第一課と第三課の島は十三階フロアの隣同士に位置する。昨年度までは間に二課が挟まっていたのに、大規模な席替えが行われた結果、北向きの窓から三課、一課、二課の順で並ぶ形となった。  暇を持て余した三課とは異なり、一課は外回りだ打ち合わせだなんだと留守にしていることが多い。忠俊の真後ろの席にも、おおむね彼が座っていることはなく、雑談にやってきた他部署の人間がベンチ代わりに使っているところをよく見る。  彼はたまに帰ってきたかと思えばパソコンを持って会議室へと消えていく。そのぴんと伸びた背中を思い浮かべ──ベッドの上でもがく白い背中を芋蔓式に思い出した。  途切れとぎれだった記憶の断片が、時間とともに、パズルのように集まりはじめる。  汗ばんだ肩。白い肌とは対照的な黒髪が乱れ、汗ばんだ首筋に張りつく。見ているとたまらなくなって押さえつけながら噛みついた。  ──あっ、あぁっ……やっ、んぅ、か、係長、なんで……っあ、だめ……!  持参したステンレスボトルを開けてコーヒーを喉へ流し込む。苦しげな息遣いも甘やかな嬌声も、口の中に残るキスの感触もまとめて。 「どうしたんです。それ」 「ぶっへは」  突然頭の上から降ってきた声に噎せ返る。気管に入り、息ができず、何度も咳払いをして落ち着いたころにはぐったりとしていた。  振り仰いだ先で呆れ顔の基と目が合う。外回りから今帰ってきたところなのか、コートを着込み、首にはマフラーを巻いている。鼻の先が少し赤い。  それ、ともう一度言って、基は忠俊の手にある細長い水筒を指した。 「初めて見ましたけど」 「あ──ああ、えっと、娘にもらったんだ」 「へぇ」  興味があるのかないのかわからない声で言い、隣の席のオフィスチェアへと腰かける。キャスターを転がして寄ってくる基に、ついつい逃げ腰になって下を向く。 「コーヒーを作って水筒に入れてって、最初は面倒だなぁと思ってたんだけど、慣れると結構簡単だね。節約にもなるし」 「貧乏くさ」 「し、辛辣だなぁ……」  苦笑いをしながら、怪しまれなかったことにこっそりと安堵する。  十三階には四つの自動販売機が設置されている。そのうちのひとつがカップ式の自販機で、季節によって入れ替わる種類豊富なレギュラーコーヒーが楽しめる。  出社するとまずそこでコーヒーを買う。蓋をしてデスクに持っていく。昼休みあけにはなくなるので、また買いにいく。それが忠俊の長年の習慣だった。  定年間際、そんなお決まりのパターンを突然やめた理由は節約ではない。  一言で言うなら「リスク回避」だ。  口をつけた紙コップを不用意にゴミ箱へ捨てることの危険性に、今になって気がついてしまったがゆえに。  まさかとは思うけれど、そんなはずがないとは思うけれど、それでもやらずにはいられなかった。 「水筒じゃなくて、最近はマイボトルって言うんですよ」  にやにやとした、意地悪そうな顔と口ぶりにそれが嫌味であることを察する。横文字を知らない老人だと思われるのは──事実知らなかったが──癪だった。しかし言い返すのも大人げない。  黙ったままでいると、隣の男は手許を覗き込むように身体を寄せた。靴の先が触れ合う。彼はいつも美容院帰りのようなエキゾチックな整髪料の匂いがする。  その匂いを一番強く感じた夜をまたしても思い出し、大声で叫びながら頭を掻き毟りたくなった。  どうしてあんなことになってしまったのか。  気怠い身体を引き摺りながらマンションを出て、忠俊はいつまでも使い慣れないスマートフォンを操作した。少し調べてみると、驚くほど短期間のうちに、驚くほど安価な値段で、驚くほど簡単にDNA鑑定が行われることがわかった。  汗が噴き出した。  使用済みのコンドーム。コップ。箸。シジミの味噌汁──インスタントとは思えないほどおいしい──が入った椀。換気扇の下で吸った煙草の吸い殻。ホテルのアメニティらしい白の歯ブラシ。髭を剃った同じく白のT字剃刀。浴室の排水口には白と黒の毛髪が。きっと枕やシーツにも──。  DNAがそこら中にばら撒かれたあの部屋から採取することなど容易だろうに。でも、と忠俊は言い訳をする。でも、まだわからない。でも、確証もない。  基の膝が脚に当たる。たまたまだと言い聞かせる。動揺すれば敵の思う壺である。  ──んっ、んっ、あ、ん……かかりちょ、う、あ、きもちい、ですか……っ?  頭の中で淫靡に腰を振る彼は、涼しい顔でボトルを見ている。くっついた膝小僧は触れたまま、時折誘うように擦りつける。 「紀伊国君。会社だよ」  営業部の島回りはとくに人気がないが、それにしても、同僚の距離感というには度が過ぎている。  触れ合った脚はまだ離れない。 「一回寝たくらいでいい気になって恋人面する馬鹿な女の子みたいだね」  ノートパソコンの内側から唸りを上げて回転するファンの音が聞こえる。  ふっと脚から重みが消えた。怒って立ち去るかと思いきや、距離を取るだけで自席に戻ろうとはしなかった。 「──……少しくらいいい気になったって許されるでしょうよ。あんたのことずっと好きだったんですから」  基は耳まで真っ赤になっていた。  羞恥というよりは、愚弄されたことに対する怒りで頭に血がのぼっているように見えた。  同じような言い草で彼が佐藤楓を嘲笑っていたことを知っている。後ろの席で下劣な会話が繰り広げられていたことを。  顎を引いてこちらを睨みつける目は鋭い。薄い涙の膜で包まれているおかげで恐ろしくはなかった。  水筒を持ってきていてよかった。手にしていたのが紙コップなら、握りつぶしてコーヒーまみれになっていたかもしれない。  ごめんなさい、とつけ足す声の柄にもないしおらしさに手が伸びそうになる。  基は自席に戻り背中合わせで作業をはじめた。ものの十分足らずでパソコンをしまい、声もかけずにフロアを出ていく。 「……っ」  間違っている。こんなことは間違っている。追いかけて何になると思いながら、コートと鞄を鷲掴みにして忠俊は飛び出した。 「係長、お疲れさまです」  フロアを出てすぐにあるエレベーターホールで、憎たらしい笑顔の基が嬉しそうに待ち構えていた。呆気にとられて固まる忠俊へと手を伸ばす。 「一緒に帰りますか?」  してやられたと思うと同時に腹の底から怒りが込み上げる。この微笑みが快楽と涙でめちゃくちゃに歪むまで犯してやると決意するには充分だった。
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