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第一話
シジミ汁が飲みたい。二日酔いの朝はシジミ汁に限る。
港区赤坂のいけ好かないタワーマンション十五階、人目を気にする必要もない高層階だからか、この部屋にはカーテンという概念がそもそも存在しないようだった。もしくは露出趣味があるのか。唸りながら起き上がると眩しい朝日に目が潰れかけた。
酔っ払ったはてに一夜の過ちをおかすなど何十年ぶりだろう。酒にも過ちにもしばらく縁がなかった。
馬鹿をする暇もなかった。三十歳の若さで、妻が一人娘を残しこの世を去って二十年。今年五十になるはずだった彼女は今も三十歳のまま。二十代とももうお別れとため息をついていた横顔は鮮やかだ。
男手ひとつで雨にも負けず嵐にも負けずどうにかこうにかやってきた。当時五歳だった生意気な娘も今年二十五になる──今も生意気なままだが。
ひい、ふう、みいと床に散らばったコンドームを数え上げてげんなりする。少なくとも三回致した。布団に埋もれていないとも限らないので、きっと三回以上は。老いて萎んだ身体のどこにまだそんな元気が残っていたのかと、佐久間忠俊はハリツヤのない手を見下ろした。
齢六十歳。隣で健やかな寝息を立てている男は二十七歳。シーツに投げ出されたその右手に皺はない。
お父さんは、あなたとさほど歳の変わらない、若い男と勢いでセックスをしてしまいました。心の内で仁王立ちをした愛娘に頭を下げる。呆れはてた眼差しが突き刺さって痛い。
紀伊国基は寝返りを打ち、布団が捲れて、彼の若々しい手が腰に当たった。老いた手でそれを退けようとしてギョッとする。一糸纏わぬ基の肩口に、いくつも歯形が残っている。赤く腫れた跡からどれほど強く噛まれたかは想像に難くない。顔が熱くなった。
総務の山岡悠美も、人事の加川英美里も、派遣で来ている佐藤楓も、軒並みこの男に食われて捨てられたことを知っている。プレイボーイ被害者の会の末席にまさか自分の名が連ねられるとは思わなかった。
万年係長の鑑と言われ、それが褒められているのかけなされているのかはわからないまま、無事に定年退職の年を迎えた。
退職まで残り三ヶ月。窓際に追いやられてから、目立たず騒がず暮らしてきたのに、今になってまたとんでもないことをしでかしてしまった。取締役の息子にあたる営業部エースと寝てしまうなんて──。
「おはようございます」
掴んだままになっていた手が握り込まれ、指が絡まる。薬指の結婚指輪を基の指が覆い隠す。繋がれた手の先を恐々辿ると、寝起きにも関わらず大層麗しい男の顔が忠俊を見上げていた。
ベッドの傍にある姿見に、白髪と黒髪の入り混じったボサボサ頭が映った。白が七、黒が三くらいの割合。顎の周りの無精髭も似たようなもの。
目元や頬や額のたるみが急激に目立つようになった。おじさんからおじいさんへと片足を突っ込んだ──ともすれば、すでに腰のあたりまで浸かっているかもしれない。
「昨日は……えー、そのー……えー……」
勤続三十年の表彰スピーチのほうがまだ落ち着いて話ができた。まごつくほど基の表情が強張っていくのがわかる。
佐藤楓の派遣契約が終了し、昨夜は赤坂駅近くの居酒屋で彼女の送別会を開いた。帰り道、いけ好かないマンションのいけ好かないエントランスを抜けいけ好かないエレベーターに乗り、基が十五階の行先ボタンを押したことは覚えている。そこに至る経緯もそこから先も覚えていないし思い出したくもない。
「覚えてないんですか」
指が解けて、かわりのように刺々しい質問がぶつけられる。
「覚えてないんですね」
「申し訳ない。覚えていません」
「ったく都合のいいひとだな……こっちはひどい目に遭わされたっていうのに」
身体を起こそうとして顰めっ面をする。眉間に皺を寄せながらしきりに臀部をさする基に、嫌な疑念が顔を覗かせた。
「ぼ──僕が抱かれたんじゃないの?」
「何が悲しくてあんたみたいなしょぼくれたジジイ抱かなきゃならんのです」
「ひえぇ……」
「可愛こぶらないでください。気色の悪い」
ひどい言われようだった。
「紀伊国君が抱かれたの? 僕に? ど、どうして」
「そんなもの、俺が聞きたいですよ」
そっけなく返す基が嘘を言っているようには見えない。嘘をついたところで得はないし、言われてみれば、抱かれたにしては身体はさほど辛くもない。
辛そうな基の腰に忠俊は手を伸ばし、忠俊は上下に撫でた。
「……っ」
余計な真似をするなと言わんばかりに睨みつけられ素早くホールドアップする。基は苛々とした空気を隠そうともせず「係長の噂、本当だったんですね」と低い声を出した。
「結婚するまで相当遊んでたって。女性社員も片っ端から食われて、とうとう親父の愛人に手を出して窓際にやられたんですよね」
悪辣な営業スマイルは彼の父親に瓜二つだ。
当時、営業部の部長をしていた紀伊国智章は取締役になった。その息子である基は、正妻の子ではなく愛人に生ませた子だと言われている。
彼女によく似た気の強そうな瞳がじっと見つめてきたかと思えば、ふいと逸らしてベッドを降りた。
「あーもう、くそっ、頭が痛い。シジミの味噌汁飲みますか」
インスタントですが、という声は少し言い訳じみていて、少し緊張していた。
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