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――単なる死臭では無かった。
数多の現場に踏んだ堺も、まるで新人に戻ったかのように胃液が逆流する感触を覚える。
二の腕で口と鼻を塞ぎ、「何だこれは」と漏れた声には。憎悪に近い響きが宿った。
老刑事の木村は堺のように鼻を抑えることはない。
ただ顔面を極度にしかめて死体を睨む。
それはもう般若のようで、一見するとこの老人が死体を作ったのとしか思えないだろう。
だが、木村が殺しなどするはずもない。
彼は人を殺すくらいなら、その前に自分自身を殺す。それほど、法と正義感に囚われた人だ。
木村はゆっくりと死体に近づいた。
地面は妙にテカり、半透明な白い塊が所々に散っている。
死体の頭付近には長く茶色の髪が散らばる。
安産型の広い腰はそれが女だったことを示している。
ベッドの脇に置かれた写真では船上で男女が微笑でいる。
白い肌に切れ長の瞳。涼し気で美しい女。ただどんな美しいヤツも、死ねば無残な肉の塊に過ぎない。
死体の腹部は溶け始めていたが、白い塊はそこに集中している。
内臓と液が混じって“油が浮きだした肉じゃが”のようになっていた。
そこから蛆が湧き、部屋中にコバエも飛んでいる。
堺の鼻もようやく機能を取り戻し、臭いの正体に近づきつつあった。
そう、これは嗅ぎ慣れた臭いだ。大抵の男であれば……。
「……精液か」と木村がボヤいた。
と、同時に堺の頭の中では言葉遊びが起こる。
死に振りかけられた生の臭い。生死、精子、
[……これがですか?]
堺がそう問い返すのも無理はなかった。
部屋中に飛び散るガビガビ跡、死体を包む白い琥珀。溜まるヌメヌメ。これが精液だとすれば、一体どれほどの量を集めたというのか……。
堺は首筋の裏の毛が浮き上がるのを感じる。
一方、木村は死体を見下ろし、心のどこかで悟っている。
刑事生活43年、なんとか逃げ切れたかと安堵しかけていた。
だが、その去り際で、ついに出会ってしまったのだと――
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