しあわせ。

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しあわせ。

 どれだけ胡散臭くても、どれほど有り得ないと思っても――追い詰められた人間は時に、どうしようもないほど何かに縋ってしまうものである。  例えば宗教。あなたのその辛い状況や心を、神様を信じることで解決することができますよ、なんて言われたら。それが、とても親切丁寧に愚痴を聴いてくれた人から貰った言葉であったなら。ついコロっと、その勧誘に乗ってしまうなんてこともあるのではなかろうか。  私が縋ったのは宗教ではなかったが、ある意味似た様ものであったかもしれない。あるデパートの店舗で見つけたありきたりに見えるマフラーに、ついつい心惹かれてしまったのだから。  そのベージュのマフラーの価格は一万円。マフラーとして見れば、かなり高価格な部類に入るだろう。コート並の値段だ。それでも思わず手にとってレジまで持っていってしまったのは、そこに書かれた可愛いポップにこんな謳い文句が書き添えてあったからだ。 『今の状況を打破したい!ドン底から脱したい!  このマフラーを手にとった貴女には資格があります。  このマフラーを身につけていれば、幸せが向こうから飛び込んできますよ!』  なんじゃそりゃ、そんなことあるわけないでしょ――今までの私ならきっとそうやって鼻で笑っていたに違いない。現実主義者だと、今までそう思ってきたし信じてきた。自分の運命は自分で切り開き、正しいことを貫き通せば結果は自ずとついてくると疑っても来なかった自分。  有名大学を出て、大手玩具メーカーに就職、女性にして管理職を任されるに至った私の人生は、まさにエリート街道まっしぐらだったと言っても過言ではない。  ついでに言えば、容姿という意味でも自信があった。小学校から大学、社会人まで男に声をかけられなかったことがないのだから、強ち間違いでもないのだろう。すらりと背の高い美人、モデルみたい、肌が綺麗、もう四十代なんて嘘でしょ――この年になっても、私を称える賛辞が途切れることはなかったのである。二十代で夫と結婚した時もそう。選りすぐりの男から、最も自分に相応しい者を旦那として選んだつもりだった。私を支え、私を認め、私の人生の邪魔をけしてしない男。勿論愛情はあったが、それ以上に私は私の選択が正しいと信じて疑わなかったのである。  子供はできなかったが、そもそも仕事をずっと続けていきたかった私にとってはけして必須条件ではなかった。今のご時世、子供がいない夫婦などいくらでもいる。子供がいなければ幸せになれないなんてものは、使い古された幻想だ。夫も無理に、子供が欲しいなどとは言わなかった。彼も同じ気持ちであったのだろう。私達は二人、二人三脚で今日までうまくやってきたつもりだったのである。  そう、それなのに。 『お願いだ。……離婚、してくれ、綾乃(あやの)』  何故。二十年も過ぎた今になって――夫に離婚届なんてものを突きつけられなければいけないのか。  あの気の弱い、自分の命令ならば何でも素直に聴いてきた夫が。私という女性の旦那になることができ、裕福な暮らしができ、幸せな家庭を築いてきたはずの大人しい男が一体何故。 『……理由は?』  どうして。何が不満なの、何が問題だったの――矢継ぎ早に尋ねたいところをぐっと堪えて訊いた。浮気、ではないだろう。勿論私にそんな心当たりはないし、夫にもそんな甲斐性はないはずだった。というか、世間のどこを見回しても私より優れた女はいないとさえ思っていたほどだ。確かに若い女性は魅力があるかもしれないが、彼の職場にも近隣にも、私ほど容色に優れた賢い女はいない。四十代だからといって、化粧を塗りたくり流行に乗ることばかりに必死な尻軽女達に負ける要素など全くないという確信があった。  ゆえに、あまりにも唐突だったのである。今まで彼は何一つ、私達の生活に対して不満を口にしたことはなかったのだから。
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