芸妓(げいこ)対ボクサー

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 まず芸妓に関して述べるなら、名をお菊(本名 鈴川美香)と言う。年は32歳で服飾系の短期大学を卒業してから生まれ育った京都にある置屋(力士でいう部屋)の門を叩いた。入門当時は20歳、同期には1、2歳年下もいた。そしてその事実にお菊は歯噛みした。何故なら彼女も本心では高校卒業と同時に、いや更には高校を中退して置屋に入りたいと思っていたのを、厳格な両親に反対されて仕方なく高校を卒業し、また短大も修了した経緯があったからだった。そしてその悔しさ、また今だに両親の心からの了承を得ていないという逆境が彼女の活力となった。舞妓として4年間、先輩芸妓の世話をしながら京言葉、しきたり、礼儀作法から日本舞踊、長唄、三味線を必死に学んだ。途中挫折し辞めてゆく同期が何人もいた。その理由は稽古の辛さに耐えかねて、であるとか、ホームシックを患って、等だったが、お菊にとっては修行よりも芸事に打ち込めなかった頃の、聞きたくもないミシンの単調極まりない音を聞き続けた2年間の方がよっぽど大変な修行であり、また両親には恨みさえあったのでホームシックにはなりようがなかった。そして24歳でお菊は芸妓となり、更に腕を磨いた。恋愛もしなかった。昔から芸妓の世界には自分たちを娼婦と差別化を図る為、客と肉体関係を持つことを恥とする風習があり、それに伴って恋愛も良しとされなかった。25歳という女性にとって結婚を意識せざるを得ない年齢に差し掛かったお菊も、その例に漏れず家庭での幸せを考えないわけではなかったが、芸事に集中したいからと一切の色恋沙汰から身を反らせ続けた。そして今日までの7年間更に芸に没頭して来た。今やお菊は店の看板であるばかりか、花街でも若手の筆頭株に数えられる芸妓となっている。  続いてボクサーに関して述べると、荒木隆二という男性で、年齢は24歳である。彼がボクシングを始めたのは高校一年生の時だった。彼は高校入学当初、小中学校の9年間続けたサッカーを続投する為にサッカー部に入る予定だったが、体験入部した際、総勢80人と思いの外層が厚く試合に出場できなさそうだったこと、また大所帯特有の排他的なムードを感じて入部を止めた。そして目的を失って友人と学校帰りに近所を遊歩していた際に見つけたのがボクシングジムだった。ガラス越しにサンドバックを打ったり縄跳びをしたりシャドーボクシングをしているジム生見た時、荒木は彼等それぞれの孤独な闘いをそこに見た気がした。そこには巨大な組織に身を置いた際の自我への盲目さはなかった。彼等は「己」を研磨していた。サッカー部、また学校という大きな括りの中でしか生活してこなかった荒木はそれに魅せられ、即座にジムに入ったのだった。そして彼のキャリアが始まった。始めてから1年後、17歳の時プロテストを受け、荒木は合格しプロボクサーになった。そして主にライトフライ級で試合を続け、現在17戦13勝4敗(内KO5回)の成績を抑え、来年には世界戦を控えている。  このような二人が「そこ」にはいた。  「そこ」は、座敷であり、リングだった。敷かれた畳、違い棚に置かれた壺、壁に飾ってある屏風等の特徴は座敷のそれであったが、そこに青と赤の合計四つのコーナーポストが配置され、またそれぞれのコーナーとコーナーの間にロープが三本張られ、そこの中にレフェリーがいるという点ではその空間はリングといえた。  そのような舞台に相応しい二人のプロ、芸妓とボクサーは、そこで最終的な準備をしていた。お菊は帯を今一度締め直し、荒木はそこの外からセコンドにマウスピースをはめてもらっている。  そこの外でゴングが鳴った。様子を本来まみえることのない相手と対面したが、2人に迷いはなかった。両者ともそこを神聖な場所と捉え、そこに居る間は職業的使命を全うするだけだと思っていた。お菊は座敷ではただ心を込めて舞い踊り、荒木はリングではただ目の前の相手を殴り倒すだけだという堅固な意思を持っていた。  とはいえ、荒木は直ぐには動き出さず、相手を観察した。それは彼の常套手段だった。具体的には相手のファイトスタイルを鑑みてカウンターのパターンを幾つか編み出し、その機会を伺う。それを証左する様に、荒木の築いた過去5回のKOは全てカウンターによるものだった。彼は相手からの攻撃を貰わない間合いを保ちつつ様子を伺った。そしてリング外ではその作戦を理解している荒木のセコンドが黙って彼の健闘を祈っていた。  対し、お菊はまず膝を床に着け、畳の上に揃えた両手に額を垂れた。直ぐにリング外の先輩芸妓が琴を弾き始めた。そして目の前で細かくフットワークを刻む荒木に向かって優美に舞い始めた。  荒木は自身のテンポが狂わされるのを感じていた。普段ボクサーの刻むリズムが心音よりゆっくりになることはない。それはボクシングをする上で必要な運動量を鑑みた時当然であり、相手が自身と大差ないテンポになっていることを、荒木は今まで特別なことだと認識することはなかったので、試合開始早々、彼は内心で大きく躓いていた。  加えて荒木は相手の妖艶な佇まいにうろたえていた。女性を殴らなければならないということが、彼が相手に攻撃することへの妨げになっていた上に、相手の芸妓は女性性を濃厚に表していた。下半身から始まり緩やかに体内を伝わる波が、腰を切らせ、扇を翻らす。そしてその合間から切れ長の目が覗き、視線はなだらかに下に流れ、長い睫毛が印象的に残る。荒木は思わずガードを上げた。  対してお菊の内心では焦っていた。今まで演じている最中に酒の勢いに任せて絡んで来る客はいたが、目の前でファイティングポーズを取る人はいなかった。両腕が上がっている為、お客の視界を狭まっており、さらに自分と間隔を作りつつ左右に移動している為、その狭まった視界の位置が定まらない。つまり自分が舞うべき位置が定まらないのである。お菊にとってこのような相手に舞って見せるのは初めての経験だったので、彼女は自分の見せ方の調整に腐心していた。足の指先に力が入り、畳が毛羽立った。  荒木は相手の醸す空気に呑まれる前に攻撃しなければと思い、意を決してステップでお菊に近付き、ジャブを一発放った。打ち終わると荒木は即座にまた相手の間合いの外へと戻った。彼の左グローブには確かな手ごたえが残っていた。  お菊は扇子の隙間から顎の先を撃ち抜かれ、倒れた。彼女の脳は頭蓋の中で跳ね回っており、景色は融解していた。平衡感覚が麻痺し、立ち上がろうにも地面が波打った。  琴の演奏が止み、「1、2、3・・・」とセコンドがカウントを始めた。荒木の胸中から迷いは消え去っていた。彼はもう吹っ切れており、相手が立ち上がると同時にワンツーで沈めてやろうと考えていた。  またこの時荒木は、「もしも相手が起き上がらなかったら」という後ろ向きの希望を持ってはいなかった。彼が脳裏に描いていたのは自分が詰めるべき距離と相手の顔面だった。  お菊は全く凪になる様子のない地面に、逆らうのを止めた。逆にその隆起と沈没に合わせた舞をし始めた。それはお菊の考えた末の打開策、というよりは芸の染み込んだ体が自然に選んだ動きだった。セコンドはその様子を見てカウントを止めた。先輩芸妓の口角が密かに上がり、バチが撥ねた。  お菊の目には、踊りを見せるべき相手が捉えられていなかった。しかし彼女の体は彼女の体自体の心地良い方へ体を運んだ。そのような身勝手な踊りをしたのはお菊にとって初めてだった。しかし不思議な気持ち良さがそこにあった。自分の内から自然に湧き出るものに身を委ねる快感があった。そしてその芸に芸本来の「目の前のお客様に喜んでいただく」という目的が矛盾することはなかった。お菊はその理由を理屈ではなく心で理解しつつ舞っていた。  対する荒木は自分の構想した攻撃に踏み切れずにいた。それは自分が行くべき一本の道筋に、突如として異質な舞いが立ちはだかったからである。自分のジャブによって一度は沈んだ手負いの相手が、生還してからというものまるでダメージを活力にしたかのような動きを始めた。この事実が彼の脚を止め、間合いを詰めさせなかった。  相手の芸妓はまるで運命に翻弄される哀れな娘のようだった。足が解れ、重心が崩れ、体は前後左右に揺れ、立て直そうとすると、また足が解れた。そして体が翻る度に、肌蹴た着物の裾からは白い足首が見えた。扇子の金具が光る度に、荒木にはそれが芸妓の涙に見えた。芸妓の垂れた前髪が瞼にかかっていた。荒木は思わずそれを払ってやりたい気分になっていた。  荒木には芸妓の演じる娘のバックボーンまで浮かんで来るように思われた。己の人生設計を自分でできなかった時代、仕事、結婚相手、全て一族の為に使われる娘の人生が荒木には見えて来た。また激しくなった琴の演奏が、そのような時代の空気を醸していた。  そのような演じ手の踊りをお菊自身も見ていた。彼女は集中力を極限まで高めたことにより、座敷を俯瞰していた。そしてお菊は自分の魂の純潔さに感動していた。その魂の言うには、彼女の本懐は「芸能」だった。自分の思うまま演じた結果、彼女は客観を無視して己のしたい表現をしたが、その己のしたい表現こそが「目の前のお客様に喜んでいただく」という真心だった。  お菊は修行時代を回想していた。当時彼女はよく先輩芸妓から、「表現には自己表現、つまり芸術の側面と、受け取り手を楽しませる芸能の側面がある」と言われた。そして先輩芸妓はこう続けた。「そしてこの世界では芸術は捨ててゆかなくてはならない。お前は芸妓に憧れて置屋に入ったからか、そうゆう身勝手な自己意識がある。それは踊りの灰汁になる」  以降、その言葉を日々唱え、また自分への疑念を感じながらお菊は修行に勤しんで来た。そして今日、自分は本物の芸妓になれたことを確信したのだった。  荒木も又、あるこの異種格闘によって境地に達していた。彼の場合、自分の憧れたボクシングにおける闘争とは己との戦いであることを再認識したのである。彼は眼前の敵を倒せない己の弱さを打ち負かさなくてはならないと心を決めた。それに如何に相手に可哀想なバックボーンがあろうとも、リングの中に入ってしまえばお互いにお互いの生殺与奪が握られている状態であり、にも関わらず攻撃を遠慮してしまうことは自分を育ててくれたボクシングに唾を吐くに等しいと思っていた。  荒木はこれまで幾万回も繰り返してきたワンツーで相手の顔面を捉えた。それは会心の当たりだった。  お菊は俯瞰したまま、吹っ飛ばされる自分を見た。  ゴングが鳴った。非公式ではあるが、荒木は6回目のKO勝利を収めた。その時、座布団で試合を見ていた解説者の高田延彦が言った。 「感動した。そしてこれはやらせちゃいけない試合でしたね」
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加