ありつる世

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 古龍が潜む洞窟があるらしいぜ。  質屋の若人からそう耳にした。なるほど、古龍か。辰年の余にふさわしい。やうやう気になる。げに宿命と覚ゑた。剣は余の手もとに、たいまつは……用無し。古龍よ。余が汝を……。  至った。洞窟は都からそう経らず、青き山が下に在りし。  暗い。やはりたいまつ……。不意打ちだと鞘から出す前に致命傷を負う……。  奥へ行く。古龍よ往ね……いでよ!!  奥ヘ行く。おらぬ。慄きおったか。    なぬ、二手にわかれておる。なら、こっちじゃあ。  てくてくてく。古龍の姿は見当たらない。まことに見当たらない。いかに?蝙蝠の群れさへおらぬのは……はて?洞窟は依然として漆黒の闇。てこぼこして転ぶのも多々。       歩いていくと、洞窟を抜けた。影(光)が差し込み、余は目を疑った。  淡い桃色の花が咲き乱れた草原がそこにはあった。ありつる世である。仄かに甘い匂ひがする。ぜんざいの如き匂ひは辺りに漂う。 霧が草原をおぼろに包み、幻影と覚ゑた。白く霞んでいる。  余は亦目を疑った。  女がいたのである。若人か。花を摘んで匂ひを嗜んでおる。ちと、物語(話)をしようか。 「やれ、ちとすまぬか?女よ。」  女のつらがこなたに向いた。 【誰?】  女は訝しげに余を見ている。 「そうか。名乗ってなかった。これは失敬。余は天迅(てんじん)。汝は?」  女は恥じらいもなく、澄ました面で答えた。 【紫水(しすい)。天迅殿はいかでここにいらっしゃったの?】  結わえた髪、まだ初々しい顔立ち。貧相な身なり。竹のかごを背負っている。 「古龍を討ちに来たが、ここに至ってしまった。してここは一体?」 【ふふふ。】  紫水は何故か微笑み、花を再び摘み出した。 【滑稽であります、天迅殿。】 「?」  余は紫水の言葉に首を傾げた。おかしなことを申した覚えがない。いかでそう言ふか? 【古龍の大昔討たれたのは人の知るところにありましてよ。】  余の面は赤面し、質屋の若人なんぞの戯言を信じた己に腹が立った。然し、ここはまことに異なる世であらむ。紫水の言ふ人とはこの世に住む諸人のことのようだ。 【ここは宵ヶ原(よいがはら)。かつて古龍の息吹で焼けた地。】  紫水はそう言うと、哀しい眼になった。さっきまでの光は早々と消え失せていた。肩がすぼんで竹のかごが石のごとくいと重く見ゑた。 「どうした、紫水?思い煩うことでもあるのか?」  紫水は暫く何も言わなかった。目の前に咲く桃色の花に眼を向け、答える素振りを幾度か繰り返した。  余は紫水の返答を急かで待ち、悪しき過去があるのだろうと勘ぐっていた。  咲き乱れる桃色の花は時折風にゆらゆら揺られ、白い白いとばりに覆われていた。霞む眺めは紫水の曇りを深編笠のごとく隠し、紫水の想いを憂いたように思ゑた。  時間が流れ、風がふと止んだとき、紫水はようやく口を開いた。 【わらわは帰る故郷がない。家はあれど生まれた村はいずこにやあらむ。焼き滅ぼされ、旧き親しき人はもういない。家族はおれど故人(友人)はいずこにやおらむ。】  紫水の頬に透明な雫が音もなくゆらゆらと流れた。深い深い悲しみに浸っていた。霞む景色は紫水を柔らかに包み込むように見ゑた。余は紫水に手ぬぐいを手渡し、袖を濡らす紫水を黙って見ていた。次から次へと落ちる涙を桃色の花が拾い、立ち込める霧のように手でははらえないおぼろげな記憶はいつなんどきもこれから先も消えつることはなかった。
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