焼き鯖

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 たった一言が言えなかった。  彼と飲みに行ったときに、この話を彼にすると、彼は毎回声を上げて笑いながら、仲野くんらしい、そのとき言えばよかったのにと言うのだ。そのたびに、俺は、彼に対して少し殺意を抱き、眉間にしわを寄せて「ああ?」と言う。しかし、その話も、思えばもう10年くらい前のことだし、このやりとりも何度もした。  当時、俺と彼は、同じ会社に入社し、一緒に1年間の研修を行っていた。研修は3人一組で行われていて、もう一人同期の女の子の高山さんという子がおり、昼休みの時間は、よくその3人でご飯を食べに行っていた。どの店に行くのかは、その都度3人で話し合って決める。話し合うとは言っても、3人が行きたい店を口々に言い合ってその中から、その日妥当だと思うものを選ぶだけなのだが。そして、たいていは、最初に挙げられた店に決まった。  あのときも、3人で昼ごはんを食べに行ったのだ。そして、会社を出る前に、どの店に食べに行くか、3人で検討をした。  このとき、俺は、どうしても行きたい店があった。インターネット上で、ふとその店に関する記事を見つけたのだけど、そこは、焼き魚がおいしいことで有名らしかった。俺は魚が好きだ。特に焼き魚は大好きだ。それは、研修で和歌山に配属されてからである。和歌山で食べる魚がおいしくて、どっぷりはまってしまったのだ。  脂ののった身を口に入れると、簡単にほどけていき、そして口いっぱいに広がるあの風味。そのまま食べてもよし、大根おろしに醤油をかけて一緒に食べてもよし。ご飯がどんどんすすんでいき、いつの間にか茶碗が空になっている。焼き魚なら、あの皮がパリっと焼かれているのが、身のやわらかさと絶妙なハーモニーを奏でる。  そのお店の定食の画像を見たとき、俺は思わずよだれが垂れた。本日のお魚定食には、焼き鯖や焼きさんまが並ぶ。そのときは、確か秋だったから、旬の魚だったのだろう。思わず、以前別の店で食べた焼き鯖の味や食感や風味を思い出した。なお、その店のレビューを見ると、どれも「ほんとにおいしい!」というようなことが書いてある。食レポとしてはあまりにも不十分だが、でも、「ほんとにおいしい!」と書かれていると、ほんとにおいしいんだろうなぁと思ってしまう。その店は、どうやら平日のお昼時しかやっていないようで、俺は、明日昼休みに3人で食べに行くのはここやなと決めたのだった。 「俺は、ヴォ―ノがいいな。あそこのパスタ、めっちゃうまいねん」  最初に店を提案したのは、彼だった。それは、俺が、「銀次っていうところがうまいらしいよ」と言おうとした、その直前だった。高山さんも、ああ、あそこおいしいよなぁと賛同した。  いや、ちょっと待ってくれ。 「あそこのパスタに入ってたタコ、ほんまおいしいねん。生まれ変わったらタコになって、あの店のパスタで使われたいわ」 「愛が重すぎるやろ、てか歪んでるわ」 「ちゃうねん、それくらい、ほんまに、おいしいねん。いや、マジで、めっちゃうまいから。食べてみ、ほんまに」  彼は、人差し指を立てて、手を振りながら力説していた。そして、そんな状況の中で、ヴォ―ノに行くことを前提に彼と高山さんとの間で勝手に会話が進んでしまっているようだ。ようだ、というよりもむしろ、もうすでに二人の間では、ヴォ―ノに行くことが決定しているのだった。いつのまにか2人の足は動き出していて、俺は少しおいてかれそうになる。俺はヴォ―ノに行くことにどうも納得できず、なかなか足が進まない。 「仲野君もそこでいいやんな」  高山さんが、何かを察したのか、ふと足を止めて俺に話しかけていた。彼の足も止まり、自然とこちらに顔を向ける。まだだ、まだこのタイミングなら、「こういうところもあるらしいで、新しいところ行こうや」くらいの感じで話せばいけるはずだ。 「え、あ、うん」  くっそぉぉぉ! なーにが「え、あ、うん」じゃ。自己主張できないにもほどがあるわ。あーもう無理ですわ。今日はヴォ―ノや。諦めてヴォ―ノへ行くしかないですわ。 「じゃあ、まぁ、ヴォ―ノ行こうか」  そう言うと、高山さんはそのまま歩き出し、彼もそれに続いた。俺は一瞬天を見上げた。その日はどうしても焼き鯖腹だったから、焼き鯖を食べられないのはとてもつらかった。普段外食をあまりしないので、外食をするときには店・食べ物を選ぶのに命をかけていた俺だったが、もうどうしようもないのだと思った。他方で、3人ではなく、単独行動を取ろうかとも思ったが、そこまでするほどのことかとも思ってしまう。まぁ実際にはそこまでするほどのことなのだけれども。ただ、3人で話しながら食べるのが楽しいのであって、彼と高山さんと別れてまで食べにいくかと言われれば、そうではない。つまりは、寂しいのだ。  走って2人の後を追うと、エレベータホールですぐに追いついた。彼はまだヴォ―ノのタコについて語っている。高山さんは、彼の話を聞いているようで、聞いてなさそうだった。もっと言えば、いいかげんに相槌をうっているのが分かった。そして、俺が2人に追いついたとき、高山さんは、こちらを見て少しうれしそうな顔をした。  会社を出て、ヴォ―ノの方へ歩いていくと、その日は少し曇っていて、気温も、いつもより、若干低かった。スーツの中に着るワイシャツや下着は、いまだに夏用のものを粘って着用していたので、もうそろそろ替えないとなぁなどと、あきらめのため息まじりに、息をついた。  会社から歩いて5分くらいのところに、ヴォ―ノはあった。が、彼は、ヴォ―ノの前に来るなり、その場で膝から崩れ落ちた、ようにすごい表情で落ち込んでいた。ヴォ―ノの定休日だったのである。 「ええーーー! そんなことある? 嘘やん。めっちゃ楽しみにしてたのに、タコのパスタ」  彼が明らかに落ち込んでいるのを見ると、少し気分が晴れた。行きたい店に行けない苦しみを同じように味わっていたので、彼に少し同情した。しかし、彼は「じゃあ違うところを探すか」とすぐにけろっと気を取り直して次の店を考え始める。あまりにも切り替えが速いので、彼の表情にばかり注目していて、自分の提案をすることを忘れていた。彼が次の店を言う前に、その店を言わねばならない。もう一度来たチャンス、ここで逃すわけにはいかない。 「あのさ、昨日ネットで見たんだけど、銀次っていうところの焼き魚がうまいらしい」  い、言えた~~~。よかったーーー! これで世界に平和が訪れた。もう俺は死んでもいい。後は、店に行って焼き魚を食うだけだ。しかし、なぜか嫌な予感がするのだった。主に彼の方から。 「えっ、焼き魚!? 俺めっちゃ好きや。行こ行こ。それどこなん? へぇ~こんなとこにあったんや。いやぁ、和歌山の魚、マッジでうまいからな。いや、ほんまに。来世は魚に生まれ変わって和歌山で水揚げされたいわ」  さきほどと同様、彼は、人差し指を立てて、手を振りながら和歌山の魚について力説する。思いのほか、彼の食いつきがよかったので、俺は少し安堵した。彼が、え~嫌やとか言ったら、空気が固まるから。まぁ、彼は普段はそういうことは言わず、まぁそこでええよ、と言うくらいなんだが。それにしても、彼は何に対しても、これめっちゃうまい!と絶賛するので、ついつい食べたくなる。それに、彼の食レポは謎が多く、妙に、いったいどんな味なんだろうと思わせるのだ。  ヴォ―ノから歩いて3分くらいのところに、銀次はあった。あったのだ。確かにそこに銀次はあった。しかし、見つけるのが遅かった。  銀次は、一度も行ったことがなかったので、iphoneで地図を表示させながら歩いていった。しかし、目的地付近に着いたのに、なかなか銀次は見つからなかった。お昼時で、店も混むだろうし、会社に戻る時間も考えると、あまりぐずぐずしてはいられない。俺がiphoneを見たり、辺りを見渡したりを繰り返していると、しびれを切らしたのか、ついにこいつが口を開いたのである。 「仲野君、店が見つからんなら、もうほかの店に行こ。時間ないで」  若干彼はいらいらしていそうな感じだった。彼も昼ごはんに命をかけていたのかもしれない。ただ、彼がそう言った瞬間、俺は、銀次を見つけたのだった。それは、我々の目の前にあった。目の前にある新しい2つの住宅の狭い間にひっそりと建っている。あまりにもひっそりとしていて気づかなかった。狭い空間に残ってしまった空き家かと思った。むしろ営業しているかどうか、その住宅らも含めて建築基準法上の基準を満たしているのかを疑うレベルである。ただ、よく見れば、あまりにも古びていて文字が判然としないけれど、のれんがかかっているし、中に人がいる様子があるのが分かる。しかし、運の悪いことに、我々が到着したときには、誰かが銀次に入って行ったり、銀次から出てきたりすることはなかった。 「いや、ちょっと待って」 「諦めて、仲野君、ないもんはしゃーない」  くっそぉぉぉぉぉ! お前の目は節穴か? 顔を上げて良く見ろ、目の前にあるやん! スマホを見るな! 目の前にあるから! あ、この店とかどう?じゃあないんだよ。気づいてくれ~。というか、お前、テンション変わり過ぎだろ。さっき、焼き魚ではしゃいでたやん。あのお前はどこに行ってしまったんだ。 「だから、この……」 「よっしゃ、じゃあこの店にしよ。ほな行くで、仲野君。もう昼ごはん食われへんで?」  すでに彼の足は動き出していた。俺に、銀次を指さす時間すら与えないその早業は、むしろ昼ごはんに対する彼の強い執着すら感じさせた。やはり命をかけていたのである。彼の圧倒的な決断力を前に、俺はもはやなすすべもなかった。今度こそ完全に敗北したのだった。高山さんは、彼が店を決める際、俺の方をちらちらと見ていた。何かを察していたに違いない。  その日、銀次に行けなかったわけだが、それで永久に行けなくなったわけではないと思っていた。その日の翌日の昼休みに、もう一度銀次を提案すると、彼も高山さんもすんなり同意してくれた。彼は「今度こそちゃんと連れってってもらわな困るで」と笑いながら言っている。  俺は満を持して、銀次へと向かった。到着するなり、彼は「あれ、ここ昨日来たとこやん。ここだったんや」と間の抜けたような声で言うので、あのときすでに見つかっていた旨を彼に伝えると「そうだったんやー。ごめんごめん」と若干申し訳なさそうに、若干楽しそうに俺に謝っていた。その若干楽しそうにしているところに、多少イラっとはしたものの、まぁ責めても仕方なし、今日行けるのだから、と気を取り直した。そして、入り口に向かったところ、次の張り紙を見つけてしまったのだ。 「大変勝手ではございますが、本日11月15日をもちまして、閉店とさせていただきます。長い間ありがとうございました」  俺は、絶句した。  動きが止まった俺を後ろから見ていた彼が、俺の目線の先をのぞき込む。すると、彼も閉店の事実を認識したようで、え、閉店してるやん!と少し驚いたような声を上げた。 「え、マジか」  あまりのショックに、俺はこれだけの言葉を絞り出しただけだった。高山さんは、まぁまぁと言いながら、別のところへ行こうかと提案した。  別の店に行く途中、俺は、何も話すことができずにいたが、それに彼は気づいた。 「仲野君、さっきからめっちゃ口数減ってるやん。そんなにショックだったん。それにしても不幸やなー。めっちゃ仲野君っぽいけどな!」 彼は、とても楽しそうに笑っていた。というか腹を抱えて笑っていた。 「お前を殺す」  俺は、無表情でそう言った。 「え、ちょっと待って、めちゃくちゃ怒ってるやん。いや、ほんまごめん。ただ、刑が重すぎるわ!」 「それくらいの罪を、君は犯したと思うで……」  何かを察し、俺に同情したのか、高山さんは、そうフォローしてくれた。そのフォローがなければ、俺は、あのとき、業魔となって怒りの炎で彼を燃やし尽くしていただろう。彼の命は、救われたのである。それを知ってか知らないでか、あるいは反省したのか、彼は、ほんまごめん、ほんまごめんと繰り返し、なぜかその日の俺の昼食代を出してくれまでした。  しかし、それでも銀次には行けなかった事実は変わらないのだ。あれほど食ってみたいと思っていたのに、もう永久に食べることはできなくなると、その事実が余計に銀次を渇望させる。そして、それは明らかにすっぱいぶどうではなかったのだ。その思いはいつまでも尾を引いて残っている。あのときしっかりと「このお店」と主張してさえいれば、こんなことにならなかったと思うと、そのたった5文字を言わなかったことを悔やんでも悔やみきれない。銀次という店は俺の記憶の中で永遠に「ほんとにおいしい店」として刻みこまれ、もはやそれが記憶から消え去ることはない。俺は、見えている理想へたどり着くこともない永遠の海の中でさまよい続けるしかない。そうして、それをいつでも思い出して、一生苦しむことになるのかもしれない。  二人で酒を飲んでいると、彼が、この店、焼き鯖あるやんと言う。メニューを見ると、本日のおすすめとして焼き鯖が載っていた。頼まないわけにはいかない。店員を呼んで焼き鯖を注文した。 「焼き鯖ないと思ってたわ」 「何年ここに通ってんだよ」 「いや、ちゃうねん。こんなところにあるとは思わんくて」  仲野くんだって、本の半分読んだくらいのところに目次があったらびっくりするやろと彼独特の言い回しで見つからなかった言い訳を始めた。彼は冗談で言っているのか、本当にそう思っているのか、表情から全く読み取れない。しばらく彼の言い訳を笑いながら聞いていた。 「いやぁ、仲野くんのせいで、焼き鯖食わへん年はないからな」  焼き鯖をつつきながら彼はそう言った。あの日以来、年に一回は彼と飲みに行って、そして焼き鯖を注文している。焼き鯖だけは彼が奢ってくれるのだ。むしろ焼き鯖をおごってもらうために飲みに行っているようなものである。 「それはもうええって言うてるやん」  俺は笑いながら言うが、彼の目は真剣なままだ。 「いや、本心ではそう思ってないはずや。絶対今でも殺すと思ってるやろ」 「正解」  二人とも思わず笑ってしまう。ふと、こういうのもありかなと思った。研修が終わってから、同期とこうしてご飯を食べにいくこともほとんどなくなってしまった。あのとき焼き鯖を食べていたら、彼とこんなにも長い間焼き鯖を一緒に食べることはなかっただろう。一人で美味しい物を食べるのも喜びの一つだけれど、一緒にいて楽しい人と一緒にご飯を食べるのもまた喜びの一つだ。あの銀次の焼き鯖一つでこうして関係が続いていくのだから、俺は、苦しみだけでなく、それよりずっといいものも享受し続けているに違いない。
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