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一
その少女は今日も来た。淡い色のワンピース。
正面玄関から来て他の人が居ないことをさも当たり前のように。
「ねえ」と話しかけてくると僕は頷き、勉強を教えてほしいとの意はその笑みに含まれていた。どうせ暇なのだ。またも僕はこの子に書斎で勉強を教える事になるだろう。しかし僕は多少、妻の顔色が気になった。
そうして振り返って妻の顔を見ようする。いつものように。そしていつものように分からない。妻はずっとお面をつけているから。
書斎に招いて後ろ手に戸を閉める。
少女はひとつだけの机に備わる椅子に座り、足をぶらぶらと宙を蹴る。
僕は彼女の傍らに立ってまた勉強を教え始める。
今日は数学。
少女は机上に教科書とノートを広げ、早くも眉を顰め始める。
「数学って退屈」
その表情は物語る。
「ねえどうして?」
少女の口癖のようなもので、「ん?」と尋ね返せば少女はふくれっ面の準備体操のような顔をして視線を上げる。
「なんで1+1は2なの?」
僕はその質問に少々肝を冷やされた。
問いは、決して邪険にしてはいけないものに思われたから。
「ではどうして2だと思う?」
「2以外でもいいんじゃない」
「そうだね」
思わず頷いていしまった。
しかしこれで済ませば彼女はきっと、赤点を取るだろう。
「1+1は2になるのは、それはひとつとひとつが合わせると2になるからだよ」
「だからそれはどうして?」
僅かに瞳は潤んで見えた。
僕はギョッとし、ドキッとした。
「それは……時間が関与しているからさ」
「時間?」
「うん」
そこで僕は計算と時間の関係性について、できるだけシンプルにと心がけながら解説をしようと言葉を続ける。
「”数は有限である”。これをどう思う?」
「そうなの?」
僕は首を横に振った。
「こんなことを口にすれば、すぐに反論を受けるだろうね。
たとえば、“有限としての最大数をnとし、このとき『n+1』を考えると、それは最大数を上回るため、数は有限という説に反する”
なんて風に」
「じゃあどうしてそんな話を?」
「僕はそれでも、数の有限性を信じているからだよ」
「さっき自分で否定したのに」
「でもね」
僕は少女のノートの片隅に1+1と書く。
その下に、こうも付け加えて。
数の無限性は時間に依存する。
「さっきも、時間がって言ってなかった?」
「うん」
僕は意思の疎通ができて少し嬉しくなった。
「1+1が2になるのには、時間が関与していると言ったね。それと同じことなんだ」
「どうして?」
「さっきの
“有限としての最大数をnとし、このとき『n+1』を考えると、それは最大数を上回るため、数は有限という説に反する”
という話のうち、『n+1』という部分についてよく考えてみてほしいんだ」
「それが重要なの?」
「うん。この『n+1』部分こそ、時間に依存しているのだから」
このあと僕は少女に説明をした。
『n+1』は当然『n+1』である。式で示せば『n+1=n+1』。
重要なのは『n+1』が『1n』ではないということだ。
つまり有限としての最大数『n』を無限数として証明するための『+1』という加算は、『1n』ではなくそれを『n+1』にする必要がある。
それには時間を要する。
何故なら『n』を『n+1』へと移行する際に時間を要しないのだとすれば、それはすなわち『n』の中には既に『+1』が組み込まれていることになるのだから。
よって、時間を介入させなければ『+1』の概念は成り立たない。
「つまり」
僕はちゃんと伝わっているかを確認するように、言葉を途切れ途切れ区切らせながらゆっくりと喋った。
「時間としての座標を<今>に限定した場合は、数の有限性はきっと実現するだろうね」
「へえ」
少女は感慨深そうに小さく頷いた。
「……時間の有限性ね」
「えっ?」
少女の呟きに聞き間違いでなければ僕は驚いた。
「ううん、なんでもない」
表情を掲げた少女の顔は若さの彩に花が添えられ朗らかだった。
「私、そろそろ帰るね。今日もありがとうございました」
少女はちょこんとジャンプするように椅子から降りるとさっと荷物をまとめ、鞄を肩にかけると頭をほんのり垂れる。
「うん、気をつけて帰ってね」
「はい」
少女は書斎を出て行き、正面玄関のほうへ向かう足音。そのあと僕はこの場に数秒たたずみ、自分も書斎から出て玄関口のほうへ向かう。
厨房。足を踏み入れるとエプロン姿の妻は狐のお面をつけて立っている。
互いに何も言わず、まるで時間が停止したかのような静寂感。
僕はふと数と時間の関係、有限性と無限性を類似させて想起した。
時間の経過を加味しない数の有限性は、ほんとうに閉じられた事だろうか。
妻が顔をこちらに向けた。
僕は”妻は微笑んだ”と言いたかったけれど。
彼女はお面をつけているので表情は分からなかった。
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