第一章 鷺ノ宮蓮にとっての世界

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第一章 鷺ノ宮蓮にとっての世界

 教室は鳥かごだった。  とは言っても、まさか本当にここが、金網で全方位を囲まれた本物の鳥かごだというわけじゃない。ここにいるのはあくまでも人間だ。この場合は、「教室はまるで鳥かごのように騒がしかった」と言った方が正しいのかもしれない。言葉を発する鳥達が、閉鎖的な、狭苦しいこの空間に約四十も集まり、けたたましく鳴いている、そういう比喩だ。  ふと我に返ると、耳から外してぶら下げたままにしていたイヤホンから、通学中に聴いていた、お気に入りのロックバンドの曲が漏れていたことに気付いた。すぐさまスマホを操作して曲を停止し、イヤホンジャックからイヤホンを抜いて、それらをポケットに突っ込んだ。  今年の夏休みはいつもより少なかった。連日の台風の影響で休校が重なり、授業日数が足りないため、その分夏休みが短くなった。おかげで駅から学校までの道のりで、大量の汗をかく羽目になった。  手で汗を拭いながら、何気なく教室を見渡す。クラスメイト達は、それぞれ友人と会話をしていた。ただ、久しぶりに顔を合わせる友人達と楽しく談笑しているという雰囲気でもない。彼らの表情は皆一様に歪んでいた。  何かがあったのだと、俺はすぐに察した。  彼らの大半はスマホの画面を見て、そして顔を歪ませていた。  俺は鞄を机に置くと、彼らに倣い、スマホを取り出した。慣れた手つきでロックを解除すると、ホーム画面が表示された。けれどそこには、暇潰し用にインストールしたパズルゲームや一応入れて置いたSNS類、使い時がない標準搭載のアプリ、そして溜まりに溜まって、今では三百件にまで膨れ上がったメールなどと、見慣れたアプリケーションがあるだけだった。  関係ないのだろうか。そう思った俺は、スマホを机に置いて頬杖を付いた。すると周りの声が、嫌でも自然に耳に入ってきた。 「何これ気持ち悪くない?」 「どうせ誰かの悪戯だろ。くだらねーよ」 「おい誰だよこんなことした奴! 笑えねぇからな!」  何の話かはまだ見えない。しかし、確実に何かが起きている。彼らは、その何かに惑わされている。  そして、次に聞こえた言葉に、俺は思わず硬直してしまった。 「千種は、死んだはずでしょ?」  千種、斎藤千種。そうだ、彼女は、三か月前に死んだはずだ。どうして今、彼女の名前が……?  千種は、六月のある小雨が降る日に、学校の屋上から飛び降り自殺をした。当時学校には生徒がまだ何人か残っていた為、彼女が飛び降りる姿を、そして、地面に打ち付けられてぐちゃぐちゃになった彼女の死体を見た者は多い。  俺は実際に千種の死に際を見たわけではなかったが、その日の夜に、友人から彼女が自殺したと知らされた。  千種の死後一週間近くは、やはり様々な影響があった。大半は彼女の死を悼む声だったが、中には心無い言葉を口にする者もちらほらいた。ただ、三か月も経てば、誰も彼女のことを話さなくなった。当然と言えば当然かもしれない。人の死など、いつまでも話題に出すものじゃない。  それに、時間が経過すれば人は物事に興味を失う。それは人の死であっても同じだ。人気のあった彼女も、例外なく人々の記憶からは薄れる。人の記憶は残酷だ。  千種の死は、時間の波に揉まれて忘れ去られようとしていたはずだった。しかし、どういうわけか、今になって彼女の名前が出てきた。  何故なのだろうか。率直な疑問が、脳内をじわりじわりと飽和していく。  不思議に思っていると、誰かが「蓮!」と俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。声がした窓側の方に目を向ける。すると、ひとりの女子生徒が、焦燥感に満ちた表情で俺に駆け寄ってきていた。 「陽葵……どうしたんだよ。そんな顔して」  陽葵は、別に走った後でもないのに息が荒かった。 「どうしたのじゃない……ってか、あんたまさか見てないの?」 「何をだよ」と俺が言うと、陽葵は訝しむような顔で俺を見た。 「メール。今朝届いたでしょ?」 「知らねーよ、通知切ってるし」  彼女は呆れた顔をして、溜め息をついた。俺から言わしてみれば、学校からの連絡かアプリの宣伝くらいしか通知が入らないのに、いちいち気にしてる方が異常だと思う。だがそれを言うとただでさえ危うい雰囲気が、さらに悪化してしまいそうなので言わないでおく。 「で、そのメールが何だってんだよ。もしかして学校に爆破予告でもされたわけ?」 「違う。このクラスだけ」 「この教室だけピンポイントに爆破させるつもりかよ」 「そうじゃない」 「じゃあ毒ガスとか? サリンとかだったらやだな――」 「だから違うってば!」  突然の怒号に、教室中がしんと静まり返った。俺も、一瞬何が起きたのかわからなくて、混乱する。だがすぐに気付く。クラスメイト全員の視線が、陽葵と、彼女の対面に座っていた俺に注がれている。痛い。人の視線は、俺にとって、どんなに鋭利な刃物よりも痛い。陽葵も、自分がしでかしてしまったことに気付いて、俯いて外界を遮断していた。 「……ちょっと廊下出るぞ」と小声で陽葵に耳打ちして、俺は席を立った。この雰囲気の教室はさすがに居づらい。だから、彼女を連れて廊下に出ることにした。
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