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息苦しさで目を覚ましたゆり子は、寝起きのぼやけた視界がいつまでたってもクリアにならないことに気付いた。
おかしい、どうにも目が霞む。
白いもやがかかったような不鮮明さは、起き上がり顔を洗ってみても目薬をさしてみても変わらなかった。
何度も瞬きを繰り返したが一向にピントは合わない。
何かの病気かもしれない。
ゆり子はようやく焦り始めた。目を細めなんとかスマホと向き合って仕事先に電話をかけた。
現状を伝え病院に行くことを理由に急遽休みを貰った。
次いで、恋人の智輝にも「朝から目が変だから病院に行ってくるね」とどうにかこうにかメールを送った。
すぐに近くの眼科で診て貰ったが、目に異常はなく、疲れ目だろうと告げられた。
そして気休め程度の目薬を処方された。
明日になればよくなるかもしれないと願ってはみたものの、朝起きたらやはり視界は白くぼやけたまま。
今度は大きな病院で診て貰い、神経内科と併せて大掛かりな検査もしたが結果は異常なし。
このままでは仕事にも行けないし、外出も難しい。
ゆり子の身を心配した智輝が仕事帰りに必要なものを買って届けてくれるため、まだなんとか生活は出来そうだった。
しかし、もしも難病だったら、手遅れであったなら、と不安ばかりが募ってゆく。
何より視界が突然白くなってしまうと、ゆり子の得られる情報は耳に限られ、途端になんだか世界に取り残された気分になってしまった。
三件目の病院でついにメンタルから来るものなのではないか?と心療内科を勧められた。
心療内科では最近あったストレスや心配事など洗いざらい話さねばならず、特に思い当たることのなかったゆり子は途方に暮れた。
もしかしたら何か、自分でも気付かない強いストレスがかかっていたのだろうか。
だんどんと塞ぎ混み、疑心暗鬼になる。
処方された弱い抗不安薬を飲むと、頭はぼーっとし始める。
目を瞑ればはっきりとした暗闇が訪れる。いつも目の前は白で遮られどれも色味がぼやけていたから、紛いのない黒がとても心地よかった。
そうこうしているうちに眠ってしまい、生活リズムはどんどん乱れ出す。
不安障害と診断されたゆり子は、会社で休職扱いとなった。
智輝の世話になるにも限界があるし、しばらく実家に帰って休むことに決めた。
心身ともにぎりぎりの状態であったが、実家に帰ると少しずつ身動きが取れるようになっていった。
三日も経てば生活リズムを取り戻したが、視界の白さだけが変わらず残り続けていた。
ゆり子が実家に帰って一週間ほど経った頃、高校生の妹のまひろが学校帰りに友達を連れて来ると言った。
テスト勉強を互いの家でするのが恒例だったようだ。
ゆり子は自分自身の高校生の頃を思いだし懐かしみつつも、白く鈍い視界じゃお茶の一つも出してやれないし挨拶をするべきか否かで迷い億劫に思った。
一応家を出てからまた戻って来て世話になっている身である。愛想はよくしておくべきだろうと己を鼓舞した。
玄関から聞こえた「お邪魔しまーす」という声に合わせてゆり子は居間から顔を覗かせた。
「こんにちは」
白いもやで顔はよく見えないが、まひろの後ろでこちらを見ている少女の姿を確認した。
そのまま居間に引っ込もうと思ったが何やら様子がおかしい。
「美玖、どうかした?」
どうやら美玖というのがまひろの友達らしい。
ゆり子は目を細め美玖を見やる。美玖は立ち止まったまま玄関から動かない。
何かあったのだろうか。ゆり子がゆっくりと近寄った。
「あの、お姉さん」
ようやく美玖が口を開いた。
「それ、ちゃんと見えてますか?」
何故だか急に鳥肌が立ち、ゆり子は足を止めた。
まひろはハッとして美玖とゆり子を交互に見つめる。
「や、やだ、美玖何か見えてるの……」
まひろの弱々しく怯える声に美玖は大きく頷いた。
美玖には何かが見えている。
「お姉さん、目ちゃんと見えてませんよね?」
現状をピタリと言い当てられてゆり子は驚いた。
淡々と語る美玖の声。まひろの表情はひきつる。
ゆり子は首を縦に降ることしか出来ない。
「ああ、やっぱり」
「ねぇ美玖、何?何がいるの!」
何がいる。
何かがいる?
まひろの言う意味に気付き、途端に鼓動が大きく強くなった。ドクン、ドクンと体が揺れそうなほどに。
「だってお姉さん、ヴェール被せられてるもん」
ヴェールという言葉にゆり子は息を呑んだ。
そうか、これは、この目の前の白はヴェールだ。
シースルー地の白い布越しに私は見ている。
もしこれがヴェールなのだとしたら納得がいく。
しかし現実にはヴェールなど被ってはいないし、被せられてるという表現も意味がわからない。
ただ一つわかるのは、この少女は私の求めた答えを知っているということ。
ゆり子はすがる思いで美玖に言った。
「このヴェールは、一体何」
震えて上ずった声。心臓の音がうるさいくらい脈打っている。
限界まで張詰められた空気が破裂しそうだった。
美玖は落ち着き払った調子で言った。
「お姉さんのすぐ後ろに、ウェディングドレスを着た人がずっと引っ付いてる。その人、自分のつけてるヴェールをこう、後ろからお姉さんにかけてるんですよ。ああ、すんごい顔して睨んでる」
ゆり子は目眩を覚えその場にへたり込んだ。
まひろの小さな悲鳴がやけに遠く聞こえた。
ゆり子の目眩が治まるのを待ってから、まひろと美玖は話し始めた。
美玖は所謂"視える人"で、たまにこうして親しい間柄の人にだけ何が視えているのか話してくれるのだとまひろが言った。
ゆり子は未だもやのかかる視界が恐ろしくてたまらなくなり、目を閉じてまひろの手を握り話を聞いた。
「すみません、私視えるだけで何も出来ないんで。親戚にそういうのちゃんとできる人がいるんで、早めにやって貰ったほうがいいと思います」
「お姉ちゃん、やって貰おうよ、ね、やばいよ……」
ゆり子はうんうんと頷いた。
自分でも伝えようのなかったこの視界の悪さをヴェールだと言い当てた美玖のことをゆり子は否定など出来なかった。
勉強会どころではなくなり、美玖の親戚の霊媒師に早速連絡を取り付けて貰うこととなった。
「でも誰なんだろ、ヴェールかけてるなんて」
美玖がぽつりと呟く。
その謎は翌日、美玖の親戚の霊媒師のもとで明らかになった。
瀬谷という優しげな初老の男の霊媒師は、ゆり子を見るなり言ったのだ。
「その方ね、向こうの……今あなたがお付き合いしてる方のお婆様だねぇ」
ゆり子は困惑した。
ウェディングドレスを着て、ゆり子の背後にぴったりとついてヴェールをかけていたのは智輝の祖母だという。
瀬谷は香を焚き、数珠を片手に経を唱えた。その後も幾つかの簡単な手順を踏み、あっという間に除霊は終わった。
目を閉じて瀬谷に従っていたゆり子が再び目を開けると、霞んでいた視界はまるでヴェールを上げたかのようにパッと明るくなった。
しばらくぶりの鮮明な世界。神経が昂って思わずゆり子は泣き出してしまった。
「ありがとうございます、本当にありがとうございます……」
ゆり子はただ泣いて頭を下げることしか出来なかった。
瀬谷はゆり子の肩をそっと支え、よかったよかったと穏やかで、それでいて芯のある頼もしい声で言った。
そしてその声色のまま、瀬谷は続けた。
「あのねぇ、悪いことは言わないから今のお付き合いしてる方とはお別れしたほうがいいよ」
瀬谷の話では、ウェディングドレス姿であらわれた智輝の祖母はまだ生きている。ゆり子の背後に憑いていたのは俗に言う生き霊と呼ばれるものだったようだ。
何らかの強い恨みや執着心が働いて、無意識のうちに生き霊となって現れていると。
智輝とゆり子は付き合いだしてまだ日も浅く、勿論ゆり子は智輝の祖母と面識もなかった。
「今回は生き霊を向こうに返しておいたけど、こういうのはねぇ、縁が続けばまた幾らでも飛ばされてしまうんだよ」
ゆり子は心苦しくて堪らなかった。
だがあの視界の悪さに悩んだ日々を思いだすとゾクリと寒気がするのは確かだ。
まだ会ったこともない智輝の祖母がぴったりと後ろに憑いていて、自分の頭に乗せていたヴェールをゆり子の目の前に下ろす……ゆり子は今さらになってその恐ろしさを感じていた。
後日、目の治療を理由に智輝に別れ話を切り出した。
付き合って早々、病院をたらい回しにされて心療内科に通うことになっていたゆり子に怖じ気づいたのだろう、智輝はすんなりとそれを受け入れた。
ゆり子にとって別れは辛かったが、何より縁が切れたことへの安堵が勝っていた。
それからはゆり子の目の前に白いもやがかかることはなく、いたって平穏な日々が続いている。
何故あの時智輝の祖母がウェディングドレス姿で生き霊となってあらわれたのか、そして何故ゆり子にヴェールを被せていたのかはわからない。
あの白い視界は過ぎ去ったことの一つとしてゆり子の記憶の片隅に残されていた。
しばらく恋そのものにおよび腰になっていたが、最近になって友達の紹介で知り合った晴久という男と結婚を前提に交際を始めた。
ある意味あの時のおかげで運命の人に出会えたのかもしれない……ゆり子はふとそんなことを思うのであった。
だが幸せ絶頂のゆり子は夢を見た。
暗闇の中、浮かび上がる真っ白の着物姿。
白無垢に身を包み深々と綿帽子を被った女性が少しずつ近寄ってくる。身動きはとれない。
綿帽子からは口元だけが見えた。口角の下がった紅い唇。
呆然と見つめているうちにそのままゆり子のすぐ横を通り、白無垢の女は背後にまわる。
これ、どこかで……。
ゆり子が思い出すより先に、頭に綿帽子を被せられる。
深く深く被せられ、視界が白に変わっていく。
ついに足元しか見えなくなった。
――息苦しさで目を覚ましたゆり子は、目の前が真っ白であることに気付いた。
そしてすぐにこの"白さ"が何であるかを悟り、飛び起きて叫び声を上げた。
背中の鳥肌が止まらない。自分の荒い呼吸に混じって何かか細い息遣いが聴こえる。後ろを振り向けない。
振り向いたところできっとこの白い視界は変わらない。
恐ろしさで無意識に晴久のことを考えた。
晴久、助けて……。
瞬間、誰かが背後で囁いた。
「ワタクシドモハ……今日ヲ佳キ日ト選ビ……」
ゆり子は頭が真っ白になった。奇しくも目前の景色と同じように。
背後からぼそぼそと婚姻の誓詞を読み上げる声が響いている。
END
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