本屋で寝る、非通知着信。

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本屋で寝る、非通知着信。

 あー分かってましたよ。分かってたってば。  エスカレーターを降りたところに設けられた受け付けに並ぶ面々を見て、私はがっくりきていた。受付には、顎と鼻の下に整えられた髭をたたえ、黒縁眼鏡にシンプルなニット帽、海外登山メーカーのジャケットを羽織った男性や、一見普通のパーカーなのに、体のサイドに鮮やかな黄色の一本線がプリントされたものを着た男性が列をなしている。女性の方も大ぶりのピアスを身に付けて唇には流行りの赤いルージュをつけ、オーバーサイズのトレーナーにスキニーパンツをはいていたり、逆にいかにも男受けを意識したような、膝が隠れる程度の花柄フレアスカートに毛の長いふわふわとしたニットを合わせた子などで、シンプルなシャツに無地のVネックセーター、黒いプリーツスカートの私のような恰好の人はどこを見渡してもいない。  どうせ彼らは村上春樹を読む自分は通の読書家だと思っているような人達だ。それはそれでれっきとした読書なので否定するつもりはないが、純粋理性批判を読んで涙し、失われた時を求めてを日がな一日読んでいても退屈しない私とは別の人種だ。本屋で私が最初に向かう棚は大抵一番奥の目立たないスペースだし、そこの本は埃がかぶっていることが多い。このイベントで同志に出会えるとは思っていなかったけれど、現状を目の前にするとやはり暗澹たる気持ちになる。彼らにとってはこのイベントも「映える」ための、あるいは「インテリな自分」を演出するためのアクセサリーのひとつでしかないのだろう。私は頭を軽く揺らした。ショートカットにしたばかりの髪の毛がわさわさと耳元で揺れて、私にしては珍しい房のついたピアスも一緒に揺れて、こそばゆいような、風が頭の中を通りぬけるような感じがした。この新鮮な感触は最近のお気に入りなのだ。  参加料を支払って店内に入ると、普段煌々と白色の明かりの点いている書店内の照明は通常の半分程度の明るさに押さえられていた。すでに入店した客が、持参したブランケットや寝袋などを思い思いに絨毯の床に敷いている。ベストセラー棚の横では他の人が頻繁に本を取りに来て気が散るだろうな、ビジネス書籍コーナーに陣取っているのはやはり「そういう」客なのかな、と思いながら行き過ぎる。  哲学書コーナーには予想通り誰もいなかったのでほっとした。よく考えたら、近くに誰か、特に男性がいてはおちおち寝られないではないか。ホームに来た安心感から、私は先程までの動揺とほんの少しの失望を完全に頭から振り払うことができた。私は壁面の書棚と、それと直角に並んだ書棚の角あたりに自分のリュックサックを置き、表が布のキルティング状になった厚手のレジャーシートを敷いた。大きめの魔法瓶に入れてきた熱い紅茶を、同じく持参した紙コップに注いでまず一服した。今夜は値段が高くて手が出ない好きな作家の特別装丁の全集を読むと決めているけれど、こんな機会は滅多にないのだし、たまには流行の本を一冊手に取ってみてもいいな。そう思いながら湯気が立ちのぼる天井を眺めていると、書棚の入り口あたりで物音がした。 「あ」  同じタイミングで同じ声が出た。そこにいたのは赤と青のチェックのネルシャツに紺色のパンツの男性だった。元々背が高い上に、座っている姿勢から見上げるので更に大きく見えた。彼の足から生える暗い影は長く、私の頭上にまで達した。 「ここ、ダメですかね」 「えっと・・・いいですけど」  さっきまで同志がいて欲しいと思っていたのに、実際にそれらしい人が来てしまうとなんだか失望してしまった。 「すいません、いいですかって聞かれていやですなんて言えないですよね」  といいつつ彼は荷物を置き、それでもそれなりに遠慮しているのか、1mくらい離れた書棚の隙間の通路に腰を下ろした。私はさっき嫌な顔をしていたのかもしれないと思ったので、それについては詫びるべきだと思い、「これブランデー入りの紅茶ですけど、飲みますか」と聞いた。相手の目が輝いた。  哲学科の院生だという彼は良く喋った。私も学問として哲学に触れたことはあったけれど、厳密に言うと専門ではなかったし、もう学びの現場からは離れてしまったから、彼の話が理解できない箇所もあったが、膝の上に置いた狙いの全集が全く読み進められないほどには楽しかった。一晩中話してもいいくらいではあったが、私が涙目のあくびを連発するようになると、寝ましょうと促した。 「僕は起きてますけど、荷物とか盗まれないように見張ってますから」 「えー、いいですよ。貴重品はロッカーに入れてあるし、私のことを気にせず寝てくださいよ」 「ブランデー紅茶のお礼です」 「ありがとう…。じゃあ、おやすみなさい」  ごろんと横になったその時、私の携帯が震えた。非通知着信だったが構わず出た。電話口からはザーザーと車のような風のようなノイズが聞こえ、「元気?」と聞きなれた、甘い声がした。 「うん、元気よ。今ね、男の人の隣で寝てるの。じゃあね」  ネルシャツの彼に私の声はきっと聞こえていただろう。でも私は知らないふりをして目を瞑った。朝、運よく彼を誘えたら、この近くの喫茶店でモーニングを一緒に食べよう。私の鼻先には既に香ばしいベーコンの香りが漂ってきていた。
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