観客席で寝る、とうめいの夢。

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観客席で寝る、とうめいの夢。

 夢の中で私は大きな水滴になっていた。水だからものも言えない。ぶよぶよと地面を動いていたら、正面(というのもヘンなのだけど。だって私は水だったから、どこが正面だか分からないからだ)からやってきた男の人に竹串で表面をぷつんとやられた。  まだ駄目、私はまだ我慢できると思ったけれど、私の体は敢えなく無数の小さい水滴になって弾け飛んでいた。都合よく竹串を持っている人に出くわさないよね、そう思ったら目が覚めた。  私は渉のベッドの上で大粒の涙をこぼしていた。彼は今日も帰って来なかったらしい。ぺらぺらのカーテンしかかかっていない窓は眩しかった。  私はさっとシャワーを浴び、半分下着姿でパンを焼き、湯を沸かした。パンにバターと砂糖を載せて、ドリップコーヒーを淹れる。一口食べてはシャツに袖を通し、熱いコーヒーをすすってはくるぶし丈のストッキングを履く。食べ終わる頃には仕事が出来そうな、パンツスーツの中堅サラリーウーマンになっている。  今日はスーパーが閉まる前に仕事終わるかな。渉に会えるかな。 ◇◇◇◇◇  私が膨らんだエコバッグをぶら下げて帰宅すると、部屋は何となくタバコ臭かった。少し寒いけれど窓を開ける。渉のタバコなのかギターのコーちゃんのタバコなのかはよく分からなかった。ベッドに寝転がって匂いを嗅いでみたけれど、やっぱりタバコの香りと、人間の表面の何かが染みついた甘ったるい湿った匂いがしただけだった。  剥げていたペディキュアを落として、別の色を塗り直していたらドアががちゃりと開いた。 「おお、まだ起きてた」  渉はガスコンロの上にある片手鍋の中身を覗き込んだ。「うわ、美味しそ」と言うので、「シチューだよ。手を洗ってうがいしておいで」と言うと母親みたいだと笑った。 「だってバンドマンは体が資本でしょ?」二人でハモった。今日は機嫌がいいみたいだな。私は安心して欠伸をした。  シチューの皿を片付けるのを後回しにして、渉は今日思いついたという新しい曲のメロディーをサイレントギターで弾いてくれた。メロディーのすべてが曲になるわけでもないし、思いついた順に曲になるわけでもない。でも私は最初の観客だった。観客席と決めているベッドの上で体操座りになって、ラグの上であぐらをかくようにしてギターをつま弾く彼を、やや見下ろすように見つめる。今夜は蜘蛛の糸のようにつるつる引き伸ばした、壊れそうなメロディーだ。  バンドマン、美容師、バーテンダー。3Bの職業は彼氏にしちゃダメだと言われる。そうかもしれない。朝まで帰って来ない日は、LINEすら既読が付かない。音楽に熱中していて他のことが頭に入らないのかもしれないし、単発の深夜バイトを入れているのかもしれない。想像を色々に膨らませることはあったけれど、最近はそれもやめてしまった。私が拠り所にしている、「最初の観客」すら、そうじゃないかもしれないって思いたくなかった。 「何泣いてるの」  渉の目には温度がなくて、ただびっくりして戸惑っているみたいだった。そうだよね、私はお堅い会社員のお姉さん、冷静で面倒なことを言わない女だから、あなたには。私は外れかけたお面をつける。「いい曲だったから」と小さく笑うと、キスをしてくれた。シチューの脂っぽさと、喉の奥からやってくるタバコの香りのキス。  私の中の水がどんなに大きくなっても、割れなければ大丈夫だから。まだあなたが必要。だから、なるべく長く引き延ばしてね。渉の背中に念を送ったけれど、彼はくねくねとやる気のない歩き方でバスルームに行ってしまった。
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