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銭湯で寝る、わかってた。
おもちゃのような小さな鍵を、経年劣化で木のうろのようになった鍵穴に入れて回すと、同じくおもちゃのような軽いかちゃんという音を立てて鍵が開いた。建付けの悪い扉を左右に開けると、全面に嵌っているガラスがぴしゃぴしゃと鳴った。一歩足を踏み入れると、室内は屋内というよりは屋外に近いような、埃臭いにおいに変わってしまっている。
祖父が銭湯を閉めると決めたのが今年の春だった。税金の関係で少しでも有利な時期に壊すなんて悠長なことを言っていたら、どこからか廃業の噂を聞きつけたディベロッパーだか飲食コンサルティング会社だかがやってきた。もうすぐこの建物は取り壊されてビルが建つ。ただし、浴室の見事なタイル絵だけは残され、一階にできる新感覚レストランの壁を飾る予定らしい。学生の私は当然売却の話に立ち入れなかったけれど、切り取った「らしさ」に意味はあるのだろうかと思う。祖父の守ってきたものの痕跡がまるで無くなるのも悲しいけれど。
祖母が良く座っていた番台は、記憶の中のそれより低く感じられた。私の背は168センチあるし、今日はヒールを履いているから当然なのだけれど。小さな机のような台には帳面も、受け取った切符を入れるプラスチックの瓶も、年配のお客さんから貰うキューピー人形やら精巧な紙のくす玉も無く、がらんとしていた。古びた木の座面が人の臀部の形に塗装が剥げて妙につやつやしていることだけが、そこに長年誰かが座っていたことを辛うじて示していた。祖母はそこにチェックと言うには昔風の、赤と黄色の格子柄の、ぺたんこになった座布団を敷いて座っていた。
私は土足のまま脱衣所をすり抜け、浴室に向かった。閉め切っていたはずなのに、風呂場の床は全体的に白茶けていて、靴ごしでも砂を踏んでいるようなざりざりとした感触が伝わってきた。
「どのあたりだったかな」
狙いのものはわりとすぐに見つかった。三列ある洗い場の真ん中の、浴槽寄りにそれはあった。床に埋め込まれたビー玉だ。私は持ってきた大きなマイナスドライバーやバールでビー玉の回りのコンクリートを叩いた。元々薄かったコンクリートのふちは、力を加えると少しずつ欠けていき、中のビー玉は案外あっさり取り出すことができた。
浴室の床は周りが白くて、中心に向かうにつれて群青色が濃くなる変形楕円のタイルは子供の目にも時代遅れに思えたが、一か所だけタイルが間に合わなかったのか、それとも誰かのいたずらかビー玉が埋め込まれていた。
小さい私はそのビー玉が欲しくて欲しくて、孫の特権で毎日銭湯に通っては、床のビー玉を恨めしく見つめた。ビー玉の回りにはコンクリートの隙間が出来ていて、上から湯をかけるとビー玉が中でころころ揺れるのも憎かった。それなのに、隙間に指を入れようとするとヒヤッとする感触があり、思いきって奥に差し入れると抜けなくなるか、深く指を切ってしまいそうだった。
このビー玉のことなんて長らく忘れていたのだ。自分でもなぜ突然思い出したのかわからない。でも一旦思い出したら居ても立ってもいられなくなり、祖父に無理を言って鍵を借りて来た。来週には私たち家族がこの建物に足を踏み入れることすらできなくなる。面倒ごとを嫌う祖母がすでに亡く、祖父が私の子供っぽい思い付きを面白がってくれたのは運が良かった。
せっかく久し振りにこの街に来たので、商店街を歩いてみることにした。中学の頃、こっそり買い食いしたたこ焼き屋はもうシャッター街に飲み込まれていた。肉と油のいい匂いに誘われて角の肉屋に立ち寄ると、いつものおばさんではなく若い無愛想な男が店番をしていた。
「あ、北川じゃねーか」
ああそうだった、ここは中学の同級生の親がやっていた肉屋だったことをすっかり忘れていた。しかも向こうは私の名前を覚えているらしいのに、私は名字すら思い出せない。とっくに私の動揺は伝わっているだろうが、つとめてなんでもないふりをして私は言った。
「こんちは。コロッケひとつ」
「70円ね。食べ歩き?」
「あ、うん」
揚げたてのコロッケが包まれた、縞模様の白い紙の端をつまんで受け取った。そんなに食欲がなかったはずなのに、急に胃の中身がぐっとあいたような気がした。
「関西の大学いったんだって?今日は休みなの?」
「うん。おじいちゃんの銭湯が壊されるから、最後に寄ろうと思って」
相手の正体が判然としないのに、会話を続ける居心地の悪さを感じながら質問に答えた。本当は今日受ける授業があったのだけれど、彼の年季の入ったエプロンの油染みを見て、なんとなく大学をサボって来たとは言えなかった。
「そっか。じゃ」
そういうと彼は奥に引っ込んでしまった。私は店を出て、触れる熱さになったコロッケを頬張った。
いつだったか、今日こそビー玉を取り出したくて長いこと粘ったことがあった。その日は客の入りが多かったのだろう、なかなか出てこない私に祖父も祖母も気が付かず、私はのぼせて倒れてしまった。迎えに来た母におぶわれて、歩みの度揺れる背中の感触だけはぼんやりと記憶がある。
私はポケットにつっこんでいたビー玉を出した。それは小さい頃に夢見たような、虹色に輝くものでも色の絞りが入っているものでもなく、ラムネの中にでも入っているような薄い水色の、なんの変哲もないガラス玉だった。
がっかりはしない、知っていたから。
「やすりかけて、シーグラスみたいにしようかな」
思い付きをつぶやいてみたけれど、多分私はそうしないだろうと思う。ふちに少し付いたコンクリートの塊も愛しいじゃないか。
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