スタバで寝る、ちかちかしている自動販売機。

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スタバで寝る、ちかちかしている自動販売機。

 昨晩の酒が残る身体と頭に、ここのスタバの過剰な暖房は殆ど凶器だった。  周囲の客のさざめく会話や控えめな笑い声も僕にとっては心地よい子守歌で、気付くとテキストを枕に寝てしまっていた。喉が痛いのはカラオケで朝まで歌った後、うすい霧すら出ている底冷えの街を皆で歩いたせいなのか、乾燥した店内で口を開けて寝ていたせいなのか。テキストによだれが垂れていないのだけは良かったが、明後日の試験勉強はまるで進んでいないし、スマホのロック画面の時刻を見るとバイトのシフトまであと10分だった。僕は机の上の荷物をナップザックに強引に突っ込み、飲みかけの冷めたコーヒーをそのまま持って店を出た。  大学に近いのに、平日夜のラーメン屋にうちの学生はあまり来ない。ランチは600円で無料で白米が付くが、夜はそれがないからなのか、ラーメンを食べるくらいなら和民や白木屋やサイゼリアに行くのか、家飲みするのか、それとも皆何かしらバイトしているのか。顔見知りが来たらどんな顔をして接客すればいいのか分からないけれど、誰も来ないのもなんとなく寂しい。  今日は天気が悪い訳でもないのに客が少なかった。20代くらいのサラリーマンが財布をスーツの尻ポケットに入れて一人で現れ、慌てて食べて帰ったのと、二週に一回は店に来る、いつも俯きがちでオーダーの声もはっきりしない蝶ネクタイ姿の中年男性と、近所の製菓専門学校生らしい騒がしい四人組、カップルが二、三組来たくらいだ。店長はぐらぐらと湯気が立ち上がる空の大鍋の前に立っているはずだが、そちらに目を向けなくても彼が苛立ち始めているのが空気を通じて伝わってくる。店長にとっては売上が一番大事で、僕が寝不足だなんて事情を知らないし、知る必要もない。だから、忙しくても欠伸を噛み殺さないといけないくらい眠いのに、この暇さ加減はいかにも危険だった。僕は「チラシ配って来ます!」と言い放つとレジの横の手のひらサイズの紙の束を掴んで外に出た。もう一人のバイトがドアの向こうで先を越されたという顔をしていた。  コートを着ずに出てきてしまったので、制服代わりのトレーナーを通って鋭い寒さがすぐに体の奥まで侵入してきた。「割引券でーす」「ラーメンどうすか」と、自分でも無愛想な声で呼び込みをするが、駅から歩いてくる人は、その多くが少し手前の交差点で左右に分かれて行ってしまうらしく、店の前には人が殆ど来なかった。店長は僕の姿が確認できないとサボっていると疑いそうだが、客が来なければ意味がないので、交差点のところまで歩いて行った。  客が来ない時にやるこのチケット配りはもう慣れっこで、家に急ぐ人並みに差し出す手の先のチケットを誰が受け取ってくれるか、誰が嫌そうに避けていくかなんてことに注意を払うことはなくなった。右手の先を軽く引っ張られる感覚があれば、すかさず左手に持っているチケットの束から新しい一枚を抜き出して、また差し出す作業をするだけだ。自然と心は昨日のカラオケに移った。  昨日は学部必修授業のフィールドワーク班の打ち上げだった。総勢10名で安い居酒屋で飲んだ後、有志でカラオケに行くことになった。僕は尾崎さんがカラオケに来ると言うので内心嬉しくて堪らなかった。上品で控えめなイメージの尾崎さんは、徹夜カラオケなんて来ないと思っていたのだ。  たった半年一緒に居た班の仲間には分からなかったろうが、僕を良く知る高校の友人なら、僕が飛び上がりたい程喜んでいることをすぐに見抜いただろう。居酒屋で彼女がカクテルやサワーなどの甘いお酒ではなくビールを飲んでいたのにも、勝手に好感度が上がっていた。  それなのに、段々空気がだれてくる深夜三時頃、彼女は慌てて荷物をまとめて先に帰ってしまったのだった。誰かが「こんな時間に一人では危ないよ」と声を掛けたが、「私のアパート、ここから近いから」と譲らなかったので、皆それ以上引き留めるのを止めた。その場の全員が(あ、彼氏から呼び出されたのかな)と思ったはずだった。  まあそうだよな。すごく美人という訳ではないけど、あの親しみやすい雰囲気だけで魅力的だと思う男は多いだろう。それに加えて頭脳の明晰さ。フィールドワークで皆が目に見えやすい切り口から分析をしているのに対し、別の角度からの分析をエレガントに議論に差し挟み、チーム全体の底上げに成功した彼女の手腕は見事だった。彼女と同じくらい賢い人は男女ともに他にもいるだろうが、自己主張が激しすぎて嫌味だったり和を乱したりする奴が多いのだ。適当に選ばれたリーダーの僕を差し置いて、いつの間にか班の議論の中心で光を放つ彼女に、僕の心が奪われてしまったのは必然だった。  でも昨日の発表が終わったらもう授業はない。所定の期日までに各自レポートを書いて教授に提出すればお仕舞いだった。彼女は元々他学部所属で、単位交換制を使ってこの授業を取っていたから、個人的に連絡先を交換していなければ、来学期以降はこの広いキャンパスで顔を見かけられたらラッキーくらいの存在になってしまう。もちろんグループLINEでアドレスは知っているが、個人的にメッセージを送ったことはなかった。  ズボンの尻ポケットのスマホを見ると、チラシ配りに出てもう30分が経とうとしていた。店に客を誘導できたかは分からないが、もう一人のバイトに店内を任せてばかりなのも気の毒なので、僕は店に戻ることにした。  すると、店の反対側に見慣れたグレーのコート姿の女の子が歩いているのが見えた。尾崎さんだった。僕が目線を向けるのに彼女はすぐに気付き、きょろきょろと左右を確認してからこっちに渡ってきた。 「すごい偶然!昨日は先に帰っちゃってごめんね。今バイト中なの?」 「うん。あそこのラーメン屋」 「いいなぁ、ラーメン・・・。ついさっき夕ご飯食べちゃったから食べられないんだけど」 「要る?割引券」  結局あまり薄くなっていない束から、彼女に一枚差し出した。紙に自分の体温が移っているだろうことが急に恥ずかしくなった。 「ありがとう、もらうね。バイトはいつも木曜日?」 「うん。来てくれたら内緒でチャーシューおまけするよ」 「うふふ、そんなことして怒られない?でも本当に、来週行くから!」  そう言うと彼女は足早に駅の方に去って行った。  店に戻ってもう一人のバイトとチラシ配りを交替した。相変わらず客がいない、店長の目だけが行き届く店内で、なにか忙しくしていなければと床の清掃をした。ふっとガラス扉の向こうを見ると、少し前から蛍光灯が切れかけたままになっている自動販売機の点滅する明かりが見えた。来週、彼女はあの辺りを渡って店に来る。それまでに、ずっと店に置きっぱなしのトレーナーを家で洗って置こうかなと僕は思った。
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