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楽屋で寝る、もうひとつ閉じる目。
ビストロのおやじさんに代わって、おかみさんが店を締めるようになって、ミシェルはあてにしていた夜のねどこを追い出された。
「お前みたいなのが勝手口にいると店の評判にも障るんだよ、どっか行っちまいな」
数日は公園でしのいだが、寒くならないうちにどこか潜り込めるところを探さねばならなかった。ミシェルはこの街唯一の劇場に忍び込むことに成功した。劇場といったって高尚なものはやらない。旅芸人が入れ替わり立ち代りやってきて、時に好評を博し、時に散々野次られ、ほうほうの体で逃げ出すことがエンタテイメントになるような劇場だ。そこの大道具置き場が彼女の新しいねどこになった。全体的に埃っぽいし、長年虫干しされていないから妙な臭いがこもっていたけれど、屋根ばかりか壁もあるし、布団替わりになるような布地だったり綿入りのずた袋様のものがあったりして、屋外だったビストロよりむしろ居心地は良かった。
ある雨の夜、珍しく遅くまで演目がやっていたが、ミシェルは寒さに耐えかねていつもより慎重に大道具置き場に忍び込んだ。まだ幕間から光が漏れていて、いつもは闇の中に沈んでいるものたちの形を朧げに浮かび上がらせている。ミシェルは人に見付からないように奥まった場所に陣取り、大きな布にくるまって自分の体を隠した。
向こうの角には、楽器らしきものが無造作に立てかけてあった。その中にチェロもあったが、当然ミシェルには名前などわかる訳もない。しかし彼女にもそれが壊れていることだけはわかった。胴体に本来ある孔とは別の大きな裂け目が出来ていたからだ。そしてその裂け目の中から何かがきらりと光った。
「ひゃあっ!」
幸いにして、ミシェルの声は騒がしい音楽と観客のさざめきに掻き消されたようだった。その光はゆらりと動いて、中から何か出てきた。
猫だった。ただし貴族風の洋服を着て、後ろ足で二足歩行をしていた。
「お前は私が見えるのかい」
猫はミシェルに向き直って目を細め、にゃあと小さく鳴いた。猫の白い髭と眼球のふちだけが暗闇の中でつやつやと光って、美しくも恐ろしく、ミシェルは言葉を発することができなかった。
「おや、お前はもう一つの目が開いているね。いけない子だ、綴じてしまおう」
そういうと猫はミシェルの頭頂を前足でくるくると撫でた。ミシェルは一瞬にして意識を失った。翌朝、ミシェルの瞳は茶色から鮮やかな青色に変っていた。
踊り子になったミシェルは、瞳の美しさを褒める殿方にいつもこの話をするのだった。大抵はまたミシェルのほら吹きが始まった、とニヤニヤ笑いが出るのが常だったが、とある夜、その場に居た一人の紳士だけが真面目くさって頷いていたとか。その紳士とミシェルがどうなったかは、また別の話である。
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