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膝の上で寝る、巻き戻すボタン。
壁一面に張ってあるタペストリーや絨毯類がみな湿度を吸って、じんと沈んで冷たい石室のなかにいるようだった。それでも今日くらいの寒さでは、暖炉に火を入れるのはまだ大袈裟だ。パッチワークだのモチーフつなぎだのの布が、幾重にも重ねられたソファのとなりに置かれた火鉢に老女は手をかざした。遠く東洋の国の暖房器具であるそれは、昔どこかの市で出ていたのを手に入れた。店の隅にほとんど打ち捨てられたように置いてあったくらいぞんざいな扱いをされていた代物だから、説明書などないし店主も使い方を知らなかった。本来の使い方をしているかどうかは分からない。
老女の膝の上には茶色と白の斑の羽を持つふくろうが丸まって寝ている。普通ふくろうは木の上で眠るものだろうし、この部屋にも彼用のいくつかの宿り木がしつらえてあるのだが、もうずっとここで飼っているので、ふくろうより人間に似てきたのかもしれない。
老女はテーブルの上に据えられっぱなしになっているかせくり器の先を触って一、二周させて回り具合を確認すると、おもむろに玉まき器をぶんぶんと回し始めた。両者ともに糸がかかっていなかったはずなのに、みるみるうちに玉まき器に薄ピンクの毛糸が巻き取られていく。その毛糸は次第に白っぽくなり、そのあと若草色になり、また薄ピンクに戻った。その三色が巻き取られていくのを眺めながら、老女は満足げに頷く。
「今日の記憶は春の恋なのかしらねえ」
終わった恋の記憶を毛糸にするサービスは、彼女が始めたアイデアだった。依頼者は記憶を抜かれる代わりに毛糸を手に入れる。色や長さはまちまちだ。単純に付き合いが長いから長い毛糸になるわけでもないし、綺麗に別れた人との記憶がどす黒い色になることもある。それは術を編み出した彼女にも預かり知らぬところだった。近年は編み物ができない人が少なくないので、加工も請け負う。手袋やマフラーやセーターになった恋は、文字通り心に穴が開いた彼や彼女の体を優しく暖かく包みこむはずだ。
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