くすんだ幻想

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コンビニで売れ残っていた弁当とサラダ、味噌汁、それからいつものようにタバコとコーヒーを買って家路を急ぐ。 外灯に照らされた白い息。頬を刺すような冷たい空気が冬を告げている。 何気なく見上げた空に星がチカチカと揺らめく。 早く帰ろう。午後十時、暗い夜道を早足で歩いた。 「ただいまー」 玄関ドアを開けると暖かな光が出迎えてくれた。 壁にはママの選んだ家族写真が何枚か飾られている。飾り棚には季節の花やハーバリウム、小さなサンタの置物。 ドアの内側のリースもすべてママが飾ったものだ。 玄関から入ってすぐの廊下の壁沿いの大きな水槽は、パパの趣味のアクアリウムだ。 青い光の中で色鮮やかな熱帯魚たちが泳いでいる。 よく見ればまた少しだけレイアウトが変わっていた。 パパ、またこっそり買い足したのかも。 「あら、一花(いちか)ちゃんお帰りなさい」 リビングのドアを開けるとキッチンに立っていたママが振り返って優しい笑みを見せる。 ママは私が帰って来る時間を見計らって料理を用意してくれるのだ。 「今日は遅かったのねぇ」 ママの声はいつだって穏やかで優しい。一度たりとも声を荒げたことなどないし、私を責めたこともない。 誕生日に私があげたフリルのエプロンを身につけて、真っ白の皿に盛り付けられた料理をダイニングテーブルに運んでゆく。 木目調のダイニングテーブルはこの家を買った時にパパが揃えたものだ。 「数学、自信なくて」 椅子に腰を下ろしテーブルに置かれたハンバーグを見ながら呟いた。 ママがサラダとスープ、ご飯を次々と運んで来る。湯気が立ち上ぼる温かな料理。美味しそうだ。 「あらそうなの……でもほら、一花ちゃんは言われなくても出来る子じゃない」 ママが目の前の椅子に座った。 ママの手にはコーヒーの入ったマグカップ。先に食事を済ませているから、大抵ママはコーヒーを飲みながら私の食事に付き合ってくれる。 「そうかな」 「そうよ、一花ちゃんなら大丈夫よ。ちゃんと塾に通ってるんだし」 冷めないうちに食べちゃいなさいと促されスプーンを手に取る。 「いただきます」 手で器の位置を確認しながら料理を少しずつ口にする。いつだって食べれば少し冷めている。しかしママが目の前でにこにこと微笑んでいるから、胸がいっぱいになる。 「美味しい?」 なんて優しい響きなのだろう。私は大きくうなずいた。 「うん、美味しいよ」 味はいつも食べるそれと変わらない。でもこうしたやり取りが幸せなのだ。 「もうすぐクリスマスね」 手探りでフォークに持ち替えてサラダを食べていると、ママが言った。 クリスマスという言葉にワクワクすると同時に、どうせ当日は……とがっかりした。 そんな私の様子に気付いたのかママはすぐに付け足した。 「一花ちゃんもパパも忙しいだろうけど、今度はみんなでクリスマスパーティーしましょうね」 「……うん!」 ママの提案に安堵して、胸の奥がくすぐったくなった。 マグカップを持つ手には上品なベージュとゴールドのネイル。 ゆるく巻かれたダークトーンの髪。シンプルなオフホワイトのVネックニット。 若々しくておしゃれで、料理上手で、優しくて、マメで、本当に自慢のママだ。 今日は出張でいないけれど、パパだってママと同じくらい若々しくて格好よくて、センスも抜群で、優しくて、自慢のパパだ。 反抗期なんて訪れる余地もないくらい完璧なママとパパにたくさんの愛情を注がれて、一花は日々真っ直ぐに、幸せに成長する。 未来には希望しか見えない。 「そうだ、一花ちゃんは良い子だからクリスマスプレゼントを用意したのよ」 「え、本当に?」 「ちょっと早いけれど、先に渡しておこうと思って」 そう言うとすぐにプレゼントが届いた。ママからだ。 フォークを置いて急いでボタンを押す。 手の中にはグレーがかった淡いブルーのマフラーが現れた。 透明感のある色合いに胸が高鳴る。 やっぱりママはおしゃれだ。きっとこの色なら私の着ている濃紺のブレザーに似合うとわかっていたのだろう。 「わぁ、かわいい!」 早速身に付けてみる。制服姿によく合うマフラー。冬らしい出で立ちになった。 「うふふ、やっぱり似合ってる」 ママが写真を撮って送ってくれた。美味しそうな料理が並べられたテーブル。血色の良いピンクの頬、栗色の艶やかな髪、濃紺の制服とくすみブルーのマフラー。 いつもと変わらない大きな瞳と上がったままの口角なのに、今日は特別幸せそうに見える。 「ママありがとう!凄くかわいい!」 「喜んで貰えてママも嬉しいわ。あら、サンタさんに持ってきて貰ったほうがよかったかしらね?」 「いいの、私もう高校生だから」 「そうねぇ、もう高校生だものね」 もう高校生。いや、まだ高校生。 クリスマスは楽しくて眩しくて、柔らかな光に包まれている特別な日。 きっとパパは大きなツリーを買って来てくれる。それからママがテーブルいっぱいにご馳走を並べる。みんなでケーキを食べて、それから……。 想像するだけで自然と笑みがこぼれた。 ああ、早くクリスマスパーティーをしたい。 パーティーのことや、塾であったこと、ママの習い事の話をしながらゆっくりと食事を終えた。 名残惜しいが手を合わせごちそうさまと言うと、ママも心なしか寂しそうにマグカップをテーブルに置いた。 「一花ちゃん、明日も早いからもう寝ないとね」 「はぁい」 席を立ってママに手を振った。 「ママ、おやすみなさい」 ママも手を振る。 「おやすみなさい、一花ちゃん」 私はリビングのドアを開けた。 ――コントローラーのボタンを押して、VRのヘッドセットを外す。 灯りを消したままの暗い部屋。目の前の液晶ディスプレイだけが光っている。 ディスプレイの中には家の外に佇む一花。先ほどまで私だった3Dアバターだ。 制服にママから貰ったマフラーをして、こちらを大きな瞳で見つめている。 デスクの上のコンビニ弁当の空を片手にキッチンの換気扇のもとへ向かう。 明日はゴミの日だったっけ。ペットボトルもたまって来たな。 コンビニ袋にいれたままだったコーヒーとタバコ。 換気扇のスイッチを入れると大きな音とともに冷たい風が入り込む。 私は高校生じゃない。 一花という名前でもない。住んでいるのは小さなアパートの一室。仕事はアルバイトを掛け持ちしている、所謂フリーター。 気が付いたら夢も希望もないまま歳だけ重ねていた。 弁当の空をゴミ箱に突っ込んでタバコに火をつける。一花はこんなことをしないだろう。タバコの味も、苦いコーヒーの味もまだ知らない。ずっと知らなくていい。 ただ暖かなクリスマスに胸を踊らせていてほしい。 きっと"ママ"も"パパ"も同じ思いでいる。 ちらちらと赤いタバコの火。冷たい床。疲れきって重い体。 そうこうしている間にポケットの中のスマホから通知音が鳴り響く。 いつものことだ。ママからメールだ。 クリスマスパーティーの日程調整のメールかもしれない。 次はパパも揃って貰わないと困る。 一花のママとパパはどこの誰なのかわからない。 仮想現実の中で知り合って、利用規約に則って家族になっただけだ。 この仮想の家族生活に理想の人生を見出だしていることは確かだが、それぞれの事情を口にすることはないだろう。 タバコを灰皿の底に押し当てて乱暴に消した。 こんな生活をしていたら、かえって現実が苦しくなるのではないかと思ったりもした。 しかし今さらやめてしまえば明日を生きて乗り越えられない。 ディスプレイの中の一花。ママから貰ったマフラーを身に付けて、表情ひとつ変えないで突っ立ったままだ。 あんなぼやけたような青は、私には似合わない。 だから明日、私に似合う色の安いマフラーを買ってこなければ。 そして目を閉じてそのマフラーに触れたなら……。 マフラーのブルーような不鮮明な淡い希望。 近くて遠い幻想に胸を焦がしながら、私はママのメールに返事をするためにポケットからスマホを取り出した。 END
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