言えない

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「お風呂。」 直樹の唇が離れたときを待って、やっと口にした。 「後でいいよ。」 「汚いから。」 一日中働いて昨日お風呂に入ってから24時間は経っていたから富士子は気が気でなかった。 (出来ればお風呂から上がりたての一番清潔な時に直樹と交わりたい。一番綺麗な自分を見て触って欲しい。) 「汚くないよ。富士子はいつも綺麗だ。」 ( そんな訳ない。) 一度も抗った事など無かったが少し腕に力を入れて直樹を押してみた。色男だから直樹に金と力が無いのはわかってるし、そんなの昔からずっと言われてる当たり前の事だ。 でもやっぱり男の力は凄い。富士子が腕に力を入れてもビクともしない。 「嫌。」 一言つぶやいたら直樹が目を見開いて後ろに離れた。直樹の驚いた表情が想定内と言えば嘘になるが。 富士子は服を剥ぎ取られた状態でスースー寒い。目の前には20歳の直樹が裸でいる。ツルツルのシミひとつ無い綺麗な肌と贅肉が一ミリもついて無い鋭利な輪郭を持っている綺麗な男だ。若さと美しさと恐るべき音楽の才能を持った男が富士子に許可を求めている。カスミかモヤがかかっているかのように直樹はぼんやりと綺麗に見えた。 「嫌なの?」 直樹は心底驚いた顔をして聞いた。 ( 嫌な訳ない。私は直樹が好き。もったいぶるつもりなど無い。) 両親から虐待されて大人になった富士子は自分の気持ちを表現する事に慣れて無い。幼い頃から父親やその友達から身体中をいじくり回されて大きくなったけど直樹とすると幸せで信じられないくらいに気持ちいい事を思い出した。好きな男と交わる事がこれ程の喜びを与えてくれる事を富士子は初めて知った。ひび割れてササクレだった心の隙間が丸くみたされていくのがわかる。吸い付くような肌の手触りは夢のようだ。 「嫌じゃない。」 直樹はにっこり笑って富士子の右肩にキスして抱きしめた。 (それだけで良い。もういいのに。) 言いたい事をその都度上手く言えずに口をつぐむ。その都度少しずつ心にワインのおりのように何かが溜まっていく。富士子の心にも溜まって直樹の心にも違和感が溜まっていく。 それは終わりの始まりでしかないのに。
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