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「おや、今日も時間ぴったしだね」
玄関を出たトメさんがこちらを見てそう言いました。
「おはようございます。時間がずれると道路状況も変わってしまいますので」
「あんた若いのになかなか立派な心掛けしてんじゃないの」
「いえ、恐縮です」
私は車を降りてトメさんのために後部座席のドアを開きました。
「トメさん、今日はお体の調子はどうですか?」
トメさんはピンクの花柄の杖をつきながら寄ってきて、にこにこ顔で私を見上げました。
「とっても元気だよ。運転手さんは元気?」
私は笑顔でトメさんから杖を預かり、その手を取りました。
「はい、お陰様で快調です。それでは今日も安全運転で参ります」
小柄な割にふくよかなトメさんの体を支えて後部座席に乗せ、デイケアセンターに向けて車を出しました。
私はタクシーのドライバーです。と言ってもこんな田舎町ではあまり需要がないので、お年寄りをデイケアセンターへ送迎するのが最近の主な仕事です。
いつも決まった時間、決まった曜日にお年寄り宅に送迎していましたが、お得意様の一人だったトメさんの、今日は最後の送迎となりました。
と言ってもデイケアセンターへの送迎が最後というだけで、何かあったわけではありません。トメさんは東京の娘さん夫婦と同居するために、今日はデイケアセンターに退所の手続きに行ったのです。
手続きを終え、帰りの車中ではずっと無言だったトメさんですが、自宅前に車を着けた私に言いました。
「明日は娘夫婦が迎えに来るんだよ、あんたとはこれでさよならだね。これまでありがとうね、運転手さん」
「…いえ、こちらこそありがとうございました。トメさんもいつまでもお元気でいてくださいね」
私は車を降りて後部座席にまわり、トメさんに杖を持たせて玄関先まで連れて行きました。
玄関のドアを開けたトメさんは、私に背を向けたまま言いました。
「最後だから言うけどさ、あんたウチの死んだ旦那の次に親切で男前だったよ。アタシがあと40年若けりゃほっとかないんだけどね」
その言葉にショックを受けて固まってしまった私に、小さく笑いながら、じゃあねとトメさんは後ろ手でドアを締めました。
あれからもう何日も経ちましたが、トメさんが座っていた後部座席をバックミラー越しに見て、たまに寂しい気持ちになります。
そんな時、私はあの時言えなかった言葉を呟きます。
「トメさん、私、女です」
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