あいたいくるしい

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「お前は本当に愛くるしいな」  彼の口癖だ。年上の彼氏は友人達の前で私をマスコットのように扱ってくる。私もそれにのって彼のマスコットのように振る舞う。その時は気づいていなかったが、それが小さな幸せだったんだなと離れてから気づく。  彼が遠い地に住み始めてもう一年になる。SNSは便利なもので、毎日連絡をとっていれば、顔も見れるしすぐに反応もしてくれる。だから普段は遠距離にいるなんていう感覚を忘れてしまう。  でもね。やっぱり人肌の暖かさに触れたいの。寒くて長い夜は、どんなに暖かい言葉がスマホに表示されても私には苦しいの。だから私は彼にこっそりと会いに行った。  あの角を曲がれば彼の住んでいるアパートだ。どんなサプライズを仕掛けようかとワクワクしていると、道端で手を絡め合って寄り添いあうカップルがいた。いいもん。私もこれから彼と同じ事するんだから。羨ましくなんてないんだから。そう思った脳と裏腹に、私の手から彼へのお土産のマスカットを入れた袋が落ちた。  その子は誰?どういう事なの?突然、私以外の時間は超低速再生され始めた。私は超低速時間の世界で、一人で素早くマスカットを拾って電柱に隠れ、見慣れたような見慣れないようなカップルを見つめた。彼は私の知らない「愛くるしい」と一緒にいた。そして夜の闇に紛れて、見た事の無い愛くるしいの唇に彼の唇が近づいていった。唇が接触する寸前、超低速の時間がピタリと止まった。  逢いたい苦しい。そんな私の気持ちから「愛くるしい」が吹き飛んでしまった。そして残った「いた」が増殖していく。  痛っ  痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛  痛いよ。痛いよ、ねえ。あなたと一緒に「愛してる」と言いながら、狂い合いたいって思ってた。それも私には出来ないの?  時間は再び標準速度で再生され始めた。私は恐らく時間をスキップしたようで、自宅へ戻る新幹線の座席に座っていた。窓の外を夜景が高速で流れていく。私の彼との記憶が頭の中で10倍速で流れるように。彼との時間は一体なんだったのだろう。彼との思い出の最後の場面で映像が止まった。また湧き上がった、逢いたい苦しい。  所詮、私の事は遊びだったのでしょう。事は遊び、言葉遊びももう終わり。  そしてため息を一つついた。ため息と共に、私の「逢いたい苦しい」から「狂い合いたい」が抜けてしまっていた。  残ったもの  私は震えながら、果物ナイフを握る手に力を込め、心で彼に呟いた。  では、私も逝きます。  カット
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