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エンジンルームなんぞ、本来生き物が入ったら死んでしまうくらい熱くなってしまう場所だと知っている。冬場はよくおじいちゃんが“猫バンバン”をするので僕も理解していた。それでも大丈夫だと言うのだから、やっぱりこの黒猫は生きた存在ではないということなのだろう。
彼は生きていた頃の自分の名前を“チビクロ”と言った。あんまりにも、そのまんまなネーミングである。
「いいか、俺はおばけだからこういうところに入ってもいいが。お前は生きた人間だ、ここを覗き込んでいる時に車が動いたりしてみろ。お前みたいなチビなんぞ、簡単にペシャンコになっちまうぜ。ましてやお前は猫とも違う、足も全然速くないんだ」
「ぼく、かけっこで一番になったことあるよ?」
「でも猫ほど速くは走れんだろ。なんなら、今度競争してみるか?負ける気しねーけどな」
ちなみに、この後日僕はチビクロと実際にかけっこ大会を実施して川原をダッシュし、お母さんにこっぴどく叱られることになる。チビクロの姿は僕にしか見えなかったためだ。僕が一人で、突然川原で走り出したようにしか見えなかったらしい。親としては心配するのは当然なわけだが、当時の僕としては理不尽極まりないことだった。なんせ、呼び止められた結果大差でチビクロに敗北することになったのだから。――よくよく考えられれば親に止められずとも、僕の足でチビクロに勝つなんてのは不可能だったわけなのだが。
それ以来、僕にはちょっと変わった友達ができた。
チビクロはいつも、おじいちゃんの車のマフラーの中で眠っている。僕は来るたび、チビクロに注意された通り運転席に誰も乗っていないことや車がブンブンとエンジンを吹かせていないことを確認した後、マフラーを覗き込んでチビクロの名前を呼ぶのだ。それがいつも、二人でこっそり遊ぶ時の合図だった。チビクロはとっても小さかったけれど、とってもすばしっこくて、そして頭が非常に良かった。特に、交通ルールに関しては先生よりも詳しく教えてくれたものである。なんでも、猫として生きていた頃、何度も車に撥ねられそうになって危ない思いをしたことがあるのだとか。実際、近隣の友達猫が撥ねられて大怪我をしてしまったこともあるんだとかなんとか。
「車に撥ねられて怪我をする阿呆もいるけどな。気をつけてさえいれば、猫は車と一番の友達になれるんだ。俺も生きていた頃から、コイツのことは友達だと思っていたしな」
そんなチビクロが、特に印象深く教えてくれた事実が一つある。
それは、猫と車の不思議な関係についてだ。
普通の車には、意思なんて宿っていない。人間が動かさなければ、自分で走ることのできない機械だ。それなのに、チビクロはおじいちゃんの乗っているこの濃い緑色の自動車を“友達”だとそう言ったのである。
「暑い夏は、その大きな体で日陰を作ってくれる。寒い雪の日は、冷たい雪から俺達猫を守ってくれる。中に入れば、涼しい冷房も暖かい暖房もあって、足で走るよりずっとずっと遠くまで連れていってくれるんだ。俺は生きていた時、なんどもお前のジイさんに連れられて遠くまで遊びに行ったもんさ。ジイさんが運転してない時も、俺はいつもこいつの傍にいた。でもって、こいつの友達だった猫は俺だけじゃないんだ」
「そういえば、夏休みとかだと、いっつも車の下に猫さんがいるね」
「だろ?大きな大きな、涼しい日陰だ。で、エンジンルームにうっかり入っちまう猫がいるのも、俺がマフラーにつっこみたがったのも、冬のこいつがそれだけあったかい場所を提供してくれたからってことなんだよな」
だからよ、と彼は続けた。
「お前も大人になって車に乗るようになったら、その車の傍に“友達”がいないかどうか、しっかり確認してくれな。俺らを殺すのは“友達”じゃなくて、その“友達”を操る人間なんだからさ」
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