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僧正坊の、湯呑を持つ手が止まった。
「何だったかしら? 猪? バカ?」
「ば、バカとは言っていません! バカ正直と言っただけで……」
「あら、ほぼ同じよ。親である私も居るこの家で、随分言いたい放題言ってくれるわね、うふふふ」
優子は優雅に微笑んでいる。微笑みという名の、睨みつけだった。
その視線を一身に受ける僧正坊を助けようとする者など、いなかった。
「ご、誤解です! あれは暴力むす……いや藍さんが、非常に素直で真っ直ぐなご気性だと言いたかっただけで、決して悪し様に言うわけでは……」
「あら、だったら素直で真っ直ぐだって言えば良かったのに」
「そ、そうですが……」
「やっぱり、僧正坊さんは私たち親子の事をまだ恨んでいるのね。大天狗の嫁にふさわしくないばかりか、こんなちっぽけな家の手伝いばかりさせて、胸の内ではさぞ憤慨なさっているのでしょうね」
「そ、そのようなことは……!」
「あら、じゃあ私の意見も尊重して下さる?」
「勿論です! この家において、母君のご意見が最も尊重されるべきかと」
「まぁ! じゃあ、私と一緒に太郎さんの頭領就任を応援して下さるのね?」
「勿論で……え?」
こんな流れになると、法起坊たちは薄々勘付いていた。下手に口を挟むと自分も巻き込まれるので、黙っていたのだった。
おかげで生贄は一人で済んだ。
「僧正坊さん、とりあえず承認する旨、ちゃちゃっと一筆書いておあげなさいな」
「”ちゃちゃっと”とは、さすがに……」
「あら、ダメなの?」
「あ、新しい山とその頭領を認めるというのは”ちゃちゃっと”とはいかないのです! あの山に住んでいるわけでもなければ、そこで何か実績を上げたわけでもない。生まれたばかりの赤ん坊を成人させる者などいないでしょう」
「なるほど。それもそうねぇ……」
優子は、ようやく一歩下がって考え込んだ。
「太郎とてそのことは分かっているはずなのに、あのような暴論を言う。だから我々も栄術太郎様も誰も……」
「じゃあ、とりあえず実績を上げればいいんじゃないかしら? ねえ、この場合”実績”って何に当たるのかしら?」
「は?……信仰を集めることでしょうか」
「それをわかりやすい数字で表す必要があるわよね? 何をどうしたら、信仰を集めたと証明できるの?」
「と、とりあえず……山に寄せられた祈願を叶える事とか……あ」
僧正坊も法起坊たちも、しまったと思った。だが、もう遅かった。
その言葉を聞いた優子は極上の笑みでポケットに入っていた紙とペンを取り出し、何かをさらさらと書きつけた。
そして……
「はい、太郎さん。お願いがあります」
そう言い、太郎に紙を渡した。太郎はそれを受け取った。
天狗への祈願が、成立した。
「この”祈願”を叶えたら、とりあえず実績は一つできるわね。そうなったら、僧正坊さん、承認の一筆をしたためてくれるかしら?」
「そ、そんな馬鹿な……!」
青ざめる僧正坊に、太郎が恭しく首を垂れた。
「鞍馬山僧正坊殿、お気遣い痛み入ります。この天星坊、謹んで祈願をお受けし、身命を賭して事に当たる所存」
「こんな時だけ敬う風を見せるな!」
「でもこれで成立ね♪ 太郎さん、治朗くんも、お山の初仕事として頑張って頂戴ね」
「馬鹿な……!! 栄術太郎様や魔王大僧正様にどのようなお叱りを被るか……!!」
僧正坊の叫びは、誰にも受け止められることなく、どこかに消えていった。
「え~……あ、兄者。それで初仕事とはいったい?」
哀れに思いつつも僧正坊の事は捨ておき、治朗は太郎の手元の紙を覗き込んだ。
「え~と、母君のお願い事っていうのは……」
かくして、大天狗達の承認を得るためのお山の”お仕事”が、幕を開けたのだった。
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