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こぼれ話 最後の客
小料理屋ゆうは、山南家と商店街のちょうど中間ほどの位置にちょこんと建つ小さな店だった。住宅街からも近く、優子が店に入って火をおこすと、たちまち温かで芳醇な香りが漂い始める。
店じまいした商店街の店主、家路についたビジネスマンの鼻孔をついては、いつもその胃袋を刺激するのだった。
町内会の集まりの後の二次会、奥様方のサークルの集まりの後の食事会、野球チームの試合後の昼食会等々……この界隈では、集まってご飯を食べるならと訊ねたら、まずこの『ゆう』の名が挙がるのだった。
毎日11時~14時のランチ、17時~22時のディナーの時間帯にきっちり店を開け、如何なる時もそのふんわりした笑顔と料理でもてなしてくれる女将・優子の人望の賜物であった。
店に来る客は、皆営業時間ギリギリまで飲んで食べてと堪能するが、閉店時刻が近くなるとするすると退散していく。それもこれも、優子に迷惑をかけないようにするためだ。
今日も優子は時間ぴったりに暖簾を降ろすことができた。
そんな優子の足元に、影が差した。
細身で長身で長い髪をきっちり結わえたその影は、いつもと同じように、少し申し訳なさそうに呟いた。
「まだ、いいかしら?」
優子よりも少し年上であり、凛とした目元やピンと伸ばした背筋、シンプルながら上品なスーツに身を包んだその女性は、しかし、優子の前でだけはどこか空気が和らぐのだった。
優子はそんな彼女に、ふわりと微笑んだ。
「ええ、いいですよ。今日はあなたの好きなぶり大根があるのよ、舞さん」
そう言って、降ろした暖簾を手に、その女性……舞を中へと促した。
舞は月に数度、訪れる客だった。訪れる時は、こうして必ず店じまいの後にやってくる。決して迷惑を顧みないのではない。むしろ優子にとっては好ましいことが多かった。
彼女が訪れるのは、きまって、誰かとなんだか一杯ひっかけたい気分の時なのだ。そういったタイミングが合う彼女の来訪が、いつしか待ち遠しくなっていたのだった。
そんなこの女性は、名を『景由 舞』という。
正真正銘、景由光貴の母親、そして――景由松孝……優子の愛した男性の妻だった。
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