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穏やかな初夏の教室、優しい風が吹き抜ける。
午後一番の授業、眠気に襲われる時間。
教壇に立つ化学の先生は、別名 眠気製造マシーン。
その声のトーンや話し方がどんな真面目な生徒も眠りへと誘うのだ。
なんてくだらないことを考えていたら、僕も眠りに落ちていた。
キンコーンカーンコーン
チャイムの音で、ハッと目を覚ます。
視界に飛び込んでくるのは、前の席の白いブラウス。
肩口に掛かる黒髪が、風で緩やかに揺れている。
先生の言葉も耳に入らず、その背中をぼんやり見つめていると、彼女が不意に振り返った。
「寝てた?」
クスッと笑いながら問いかける彼女の可愛らしさに僕はただ、どぎまぎしてしまった。
「あと、ついてるよ。」
彼女が指差した先の自分の頬を、反射的にさする。
「キミも、授業中に寝たりするんだ?」
ははっと笑う彼女に、僕はただ頷くだけしかできなかった。
彼女はすぐに友達に呼ばれて去っていく。
白いブラウス、揺れる黒髪。
密かに想いを寄せていた彼女と交わした唯一の会話。
いや、僕は声も出せていないから、会話とは言えないかな。
キラキラしていた彼女と地味な僕では住む世界が違っていた。
だから、こんな会話にも満たないかかわりをいつまでも覚えていたのだ。
そんな事を、あれから10年近くも経って思いだしたのは、この喫茶店の制服のせいだろうか。
コーヒーを置いて行った白い襟つきシャツの女性の後ろ姿は、どことなく彼女を思い出させた。
コーヒーを1口含み、窓の外に目を移す。
穏やかな初夏の昼下がり。
大通りから1つ入った住宅街にあるこの店の前は、人通りもまばらで、静かな雰囲気が気に入っている。
2口目を飲もうとした時、一瞬、呼吸が止まった。
彼女だ…
記憶の中で白いブラウスで笑いかけてくれた彼女は、白いTシャツとジーンズというラフな格好で歩いていた。
思わず、僕は腰を浮かした。
昔と変わらない可愛らしい笑顔を浮かべる彼女。
彼女が下を向く。
彼女の視線の先、ひょこりと顔をだす女の子。
彼女にそっくりの3歳くらいの女の子が、彼女と笑い合いながら歩いていく。
僕は、中腰の姿勢のまま固まり、その姿を見送っていく。
彼女が見えなくなってから、ゆっくりと腰を下ろす。
子どもがいるのか…。
幸せそうな姿だった。
子どもがいなかったら、僕はどうするつもりだったのだろうか。
店を出て、声をかけに行くつもりだったのだろうか。
学生時代、頷くしかできなかった僕が?
冷笑を浮かべて飲む2口目のコーヒーは、1口目よりも苦く感じた。
「ごめん、待った?」
ようやく僕が落ち着いた頃、1人の女性が入ってきた。
「いいや、全然。」
この人とは、頷くだけでなく、自然と会話ができる。
「ん?なんかあった?」
不思議そうに僕の顔を覗き込む。
「いや、君に会えてよかったなと思って。」
僕は冷めてきたコーヒーをすすった。
「急に何言ってるのよ。」
照れ笑いを浮かべながら、メニューを開く。
「で、今日はどこに行くの?」
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