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「……っ、唯央……」
大輝は唯央を、やんわり引き離そうとするが……唯央の顎に掛けた手指が、どんどん濡れそぼってゆく。唾液と、おそらくそれ以外の体液で……
「こんなところで……っ」
あの大輝が、悩ましいため息をついた。
それを耳にして、唯央が見上げると、いつになく、少し困った表情だった。
唯央は思わず、熱い鼻息をフーッと洩らしながら、咥えているものを強く圧迫した。唇に、硬くなったものを感じる……
「う……っ」
唯央の後ろ頭を抱えて、大輝がやや前屈みになった。
口内に固定されたものが、グッと強まった様に感じられ、唯央は興奮を覚えたが──
「阪上、逃げ、るな……」
混乱の中、静かに立ち去ろうとしている一紀の方に、大輝の関心は向かっていた。
が、周りが見えていない唯央は、それに気がつくはずがなかった。
──逃げる?……
大輝は後頭部を離してくれないので、唯央は耳と気配だけで、状況を察する。
「……逃げなどしない。どうせ、逃げ場はないだろう。ここまでの包囲網を張られてはな」
一紀の声は概ね落ち着いていたが──戦闘ヘリまで配備するやり方に興奮したものか、語尾は震えていた。
「これが、西王財閥の力か」
「ああ……島には来るなと言っておいた、が、近づくなとは、指示を出して来なかったな」
──応援が……駆けつけてきたんだ。よかった……
二人のやり取りで、ようやく状況を飲み込んだ唯央は──安堵からか、思わず口の力を緩めた。
その時、大輝に頭を優しく掴まれ、後ろへ動かされた。ずるり、と、大輝のものから離されていく。
「私は、涼を守りに行く──絶対に、二度と離ればなれにはならない!」
「引き離しはしない。……王として、宣言したことだ。約束は守る」
「──…」
αを、『武族』を、信用できるものか──いまだって、従属するβを跪かせて、高慢に立ち尽くしている……
だが、濡れそぼった唯央の顔は愛にまみれていて、大輝は彼から手を離さない。
愛し合っているのだ──このふたりは。αとβという身分の差は、そこにはなくて、ただ向き合っているのだ。
──この男なら……信用できるかもしれない……
一紀は静かに注射器を落とし、靴底で踏んだ。薬液が地面に漏れ滲んでいく──
「やっと、信じる気になったか」
「……涼の為だ」
地面を見下ろす一紀の横顔にも、諦念が滲んでいた。自嘲する様な声音で、続きを呟く。
「この後、私がどんな目に遭わされたとしても……涼を殺しはしないだろうから、な」
大輝に跪いている唯央には、一紀の顔から落ちる雫が見えた。大輝からは、靴元に落ちた水滴が見えた。
「涼だけは、助けてくれ……頼む」
失いたくないのだ──世界から、愛する者を。それは、この男も同じなのだ……
「理不尽に、奪ったりしない」
一紀は、涙にまみれた目を大輝にそのまま向け……手にした白衣を、投げかけた。
もう、何の武器も持っていない。後は、自分に下される罰を受け取るのみとなった手を、だらりと下げていた。
はっと我に返った唯央は立ち上がり、もっと多めの布がないか探す──と、『公族』の男達が戻って来た。
「西王大輝の無事を確認させないと、上陸してくるって──!!」
絶滅寸前に追い込まれた人類の様な、悲愴な声で、絶叫する。
「いま、出る。……行くぞ、唯央」
「──はい!」
唯央は、天幕の入口に引っかかっていた日除けの布を手に取り、口元を拭った。白衣の前を留め、颯爽と出て行く大輝の半歩後ろを、ついて行く。
不意に大輝が立ち止まり、左腕を斜め後ろに差し出した。唯央は、左側に身を寄せ、大輝の腕に包まる。
「しかし、おまえは──とんでもないことをしてくれたな。昂ぶりが収まらないぞ」
「昂ぶり……?」
唯央は、歩く大輝の、はためく白衣の裾に目をやった。……動いている所為で、よくわからないが──
「だ、大丈夫です、どうしてもだめだったら、僕がしがみついて隠しますから! ……あっ、この布でも巻いたらいいですね」
「──おまえは、俺の横で、安心した様に立っていろ」
共に進む、大輝の前に、いろいろなものが押し寄せてくるのが見える──…
王から見える景色を、唯央は初めて目の当たりにした。──これから、ひどく忙しくなりそうだった……。
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