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その後、二~三日に一度、カナタは夜勤に入る様になった。
その出勤日は朝から自由が利き、入院中のソラタの傍に好きなだけ居られる。夜勤明けも、その後、丸一日を好きに過ごせた。正直、夜勤がある方が有り難かった。
もれなくナイトラウンジの雑用に行かされるが、三十分おきにトイレと洗面台の清掃など、やることは多い。
だが、これまで三回ほど勤務したが、初日に会って話をした、三輪特尉の姿を見ることはなかった。
──ホスト達が、
「そんなに暇じゃない、ってことはないよね。もっと忙しい尉官でも、足繁く通ってくださってるのに。酒が好きじゃないか、男が好きじゃないか、かな? ……残念だなぁ」
「如何にも堅物で、一人の妻だけを愛しそう──そこがイイんだけど。落としたくなる!」
……などと、話しているのを聞いてしまったから、本当に訪れていない様だ。
──一人の妻だけ、か……確かに。
この天体で一人だけ、美しく聡明な女を選び、優れた『純日本人』血統を遺す為に愛を注ぎ、家族を守っていく──そんな健全な男だと思う。
因みに、酒は強い方のはずだ。長年、バーで働いている勘だが、たぶん間違いない。
──あんなホスト達には、どう血迷っても落とされて欲しくないな……
ホスト達は、客前では男として知的にも、艶やかな女性の様にも振る舞っているが、びっくりするぐらいの仮面だ。
──でも、三輪特尉なら大丈夫か……。
ここに来れる男なら、そのぐらい見抜けると思いたい。地位と武勲ある軍人しか、ナイトラウンジに立ち入ることは出来ないからだ。
そのことに飲まれるか、酒だけを飲むか、──或いは、気に入りのホストとアフターを……ここでは、『慰頼』という隠語が使われているらしい──それをしたりするのだろう。
──慰頼なんて、初めて聞いた……そんな言葉がちゃんとあるって、なんか凄いよな。
一夜の慰めを頼むということは、軍人にとっては深い意味を持つ……
一般人にはあり得ないことだし、いくら軍人のことでも、あまり考えたくないのだが。
──例え、一夜の慰めでも……三輪特尉は、軽々しくホストには頼まない。そう、思いたい……。
そんな風に──カナタが考えていたから、だろうか……
その夜、三輪がナイトラウンジに現われた。
水色の待機着姿──なのは当然だし、他の軍人とも階級章以外は同じ格好のはずなのに、彼はひときわ目立った。凛とした佇まいの所為だ。
一瞬、息を飲ませた後で、複数人のホストを立たせた。早足で向かってくる彼らの目前で、三輪はスッとカウンター席に座った。が、
「三輪特尉、よくいらしてくださいました。今宵はどうぞ、私どもの席にいらっしゃいませんか」
白いスーツを着た人気ホストが、あくまでも優雅に、三輪をカウンター席から引き剥がそうとした。
──今宵なんて、珍しい言葉、使うなぁ。
バックヤードで見ていたカナタは、むしろ感嘆した。蝶が舞っている様な振る舞いが、印象的だった。
「せっかくのお誘いですが、お話したい方がいるので、今夜は遠慮させてください」
「でしたら、その方も是非、ご一緒に」
「いえ、それは出来ない方だと思いますので。──カナタさん、いらっしゃいますか?」
ラウンジと裏方を隔てる薄い壁越しに、物凄い『圧』が伝わった。カナタは一瞬、足がすくむが、逃げるわけにもいかなかった。
「はい、おります……」
カナタは情けない声に作務衣姿で前に出た。それを見て、他のホスト達が嘲笑を浮かべた。
「今夜も、お話させて頂いて、よろしいですか?」
「え、えっと──」
断われよ! まさか引き受けないだろうな……と、ホスト達や、横にいるバーテンダーからも『圧』を受ける。
「も、申し訳ございませんが、他に仕事がありまして……」
「では、それが済んだら、お願いします。それまで、ここで待ちますから」
ここで、を強調して、三輪は言った。
もう、ホスト達は引き下がり、カナタは掃除が済み次第、三輪の相手をするしかなくなった。
それから、カナタは改めて、三輪の前に立った。その間には、透明の液体が半分ほど入ったグラスが置かれていた。
「……強引なことをして、すみません。こうでもしないと、貴方と会話する機会がなくて」
「いえ。──まぁ、何処かで待ち合わせ、というわけにも、いきませんよね」
カナタが軽くおどけてみせて言うと、三輪は口の端を浮かせた。
「けど、もし、お願いしたら、待ち合わせに来てくれますか?」
「そりゃあ──三輪特尉とでしたら、イサギ岳の頂上にでも行きますよ」
「イサギ岳?」
「基地からも見えてる、この島でいちばん高い山のことです」
「なるほど……いま、自分が飲んでいるのが『イサギ』という銘柄の酒だというのに、掛けてあるんですね」
「やっぱり、そうじゃないかと思った」
地酒を何か、と注文されたら、この銘柄を出すのが島での定番になっている。
「イサギという字には、漢字はありますか?」
「さぁ──島の歴史資料館にでも行けば、わかるかもしれませんが。昔は日本だったとは言え、現在は漢字を殆ど使いませんから」
「カナタさんは漢字、わかりますよね。ソラタ君に『宙汰』って漢字を付けていらした」
「あ、はい……漢字は、日本国語の授業を選択していたので、そこで習いました」
「カナタさん自身の、名前の漢字は?」
「俺……じゃなくて、私は、ないんですよ」
祖父母は漢字のわかる人だったが、いまの世で必要ないからと、付けなかったそうだ。
「俺、で、いいですよ、カナタさん。──でも、漢字を習ったなら、自分で考えませんでしたか?」
「え? よくわかりますね。実は考えました」
「どんな漢字ですか? 何か書くもの……」
カナタは紙とペンを持ってきて、『叶多』と、書いて見せた。
「ああ、この字……」
「願いが、たくさん叶う、みたいな意味になるでしょう?」
「そう、ですね」
三輪は、くすくす笑うとペンを取り、その隣に見慣れぬ三文字を書いた。
「? ……何ですか?」
「愼士朗──シンシロウ、自分の名前です」
「シンシロウ……こういう、お名前だったんですか!」
三輪、愼士朗──だったらしい。
「む、難しい字ですね。あっ、ロウは普通の『郎』じゃなくて、右が『月』なんですね」
「そうです。よく間違われるんですが、よく気づきましたね。貴方はやはり、聡明な方だ」
「いや、日本国語の成績だけは、少し良かったんですよ。でも、漢字を覚えても使うことなくて!」
つい、はしゃいだ声を立ててしまった。
漢字を知っていたから三輪と楽しく会話できたのと、使う機会があったのが嬉しかったのだ。
このことで、後で思わぬことが起こるのだが──その後、もっと思わぬことが起きるということを、この時のカナタは、まったく知るはずもなかった……。
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