一 三輪との出会い

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                    その後、二~三日に一度、カナタは夜勤に入る様になった。  その出勤日は朝から自由が利き、入院中のソラタの傍に好きなだけ居られる。夜勤明けも、その後、丸一日を好きに過ごせた。正直、夜勤がある方が有り難かった。  もれなくナイトラウンジの雑用に行かされるが、三十分おきにトイレと洗面台の清掃など、やることは多い。  だが、これまで三回ほど勤務したが、初日に会って話をした、三輪特尉の姿を見ることはなかった。  ──ホスト達が、 「そんなに暇じゃない、ってことはないよね。もっと忙しい尉官でも、足繁く通ってくださってるのに。酒が好きじゃないか、男が好きじゃないか、かな? ……残念だなぁ」  「如何にも堅物で、一人の妻だけを愛しそう──そこがイイんだけど。落としたくなる!」  ……などと、話しているのを聞いてしまったから、本当に訪れていない様だ。  ──一人の妻だけ、か……確かに。  この天体で一人だけ、美しく聡明な女を選び、優れた『純日本人』血統を遺す為に愛を注ぎ、家族を守っていく──そんな健全な男だと思う。  因みに、酒は強い方のはずだ。長年、バーで働いている勘だが、たぶん間違いない。  ──あんなホスト達には、どう血迷っても落とされて欲しくないな……  ホスト達は、客前では男として知的にも、艶やかな女性の様にも振る舞っているが、びっくりするぐらいの仮面だ。  ──でも、三輪特尉なら大丈夫か……。  ここに来れる男なら、そのぐらい見抜けると思いたい。地位と武勲ある軍人しか、ナイトラウンジに立ち入ることは出来ないからだ。  そのことに飲まれるか、酒だけを飲むか、──或いは、気に入りのホストとアフターを……ここでは、『慰頼(いらい)』という隠語が使われているらしい──それをしたりするのだろう。  ──慰頼なんて、初めて聞いた……そんな言葉がちゃんとあるって、なんか凄いよな。  一夜の慰めを頼むということは、軍人にとっては深い意味を持つ……  一般人にはあり得ないことだし、いくら軍人のことでも、あまり考えたくないのだが。  ──例え、一夜の慰めでも……三輪特尉は、軽々しくホストには頼まない。そう、思いたい……。  そんな風に──カナタが考えていたから、だろうか……  その夜、三輪がナイトラウンジに現われた。  水色の待機着姿──なのは当然だし、他の軍人とも階級章以外は同じ格好のはずなのに、彼はひときわ目立った。凛とした佇まいの所為だ。  一瞬、息を飲ませた後で、複数人のホストを立たせた。早足で向かってくる彼らの目前で、三輪はスッとカウンター席に座った。が、 「三輪特尉、よくいらしてくださいました。今宵はどうぞ、私どもの席にいらっしゃいませんか」  白いスーツを着た人気ホストが、あくまでも優雅に、三輪をカウンター席から引き剥がそうとした。  ──今宵なんて、珍しい言葉、使うなぁ。  バックヤードで見ていたカナタは、むしろ感嘆した。蝶が舞っている様な振る舞いが、印象的だった。 「せっかくのお誘いですが、お話したい方がいるので、今夜は遠慮させてください」 「でしたら、その方も是非、ご一緒に」 「いえ、それは出来ない方だと思いますので。──カナタさん、いらっしゃいますか?」  ラウンジと裏方を隔てる薄い壁越しに、物凄い『圧』が伝わった。カナタは一瞬、足がすくむが、逃げるわけにもいかなかった。 「はい、おります……」  カナタは情けない声に作務衣姿で前に出た。それを見て、他のホスト達が嘲笑を浮かべた。 「今夜も、お話させて頂いて、よろしいですか?」 「え、えっと──」  断われよ! まさか引き受けないだろうな……と、ホスト達や、横にいるバーテンダーからも『圧』を受ける。 「も、申し訳ございませんが、他に仕事がありまして……」 「では、それが済んだら、お願いします。それまで、ここで待ちますから」  ここで、を強調して、三輪は言った。  もう、ホスト達は引き下がり、カナタは掃除が済み次第、三輪の相手をするしかなくなった。  それから、カナタは改めて、三輪の前に立った。その間には、透明の液体が半分ほど入ったグラスが置かれていた。 「……強引なことをして、すみません。こうでもしないと、貴方と会話する機会がなくて」 「いえ。──まぁ、何処かで待ち合わせ、というわけにも、いきませんよね」  カナタが軽くおどけてみせて言うと、三輪は口の端を浮かせた。 「けど、もし、お願いしたら、待ち合わせに来てくれますか?」 「そりゃあ──三輪特尉とでしたら、イサギ岳の頂上にでも行きますよ」 「イサギ岳?」 「基地からも見えてる、この島でいちばん高い山のことです」 「なるほど……いま、自分が飲んでいるのが『イサギ』という銘柄の酒だというのに、掛けてあるんですね」 「やっぱり、そうじゃないかと思った」  地酒を何か、と注文されたら、この銘柄を出すのが島での定番になっている。 「イサギという字には、漢字はありますか?」 「さぁ──島の歴史資料館にでも行けば、わかるかもしれませんが。昔は日本だったとは言え、現在は漢字を殆ど使いませんから」 「カナタさんは漢字、わかりますよね。ソラタ君に『宙汰』って漢字を付けていらした」 「あ、はい……漢字は、日本国語の授業を選択していたので、そこで習いました」 「カナタさん自身の、名前の漢字は?」 「俺……じゃなくて、私は、ないんですよ」  祖父母は漢字のわかる人だったが、いまの世で必要ないからと、付けなかったそうだ。 「俺、で、いいですよ、カナタさん。──でも、漢字を習ったなら、自分で考えませんでしたか?」 「え? よくわかりますね。実は考えました」 「どんな漢字ですか? 何か書くもの……」  カナタは紙とペンを持ってきて、『叶多』と、書いて見せた。 「ああ、この字……」 「願いが、たくさん叶う、みたいな意味になるでしょう?」 「そう、ですね」  三輪は、くすくす笑うとペンを取り、その隣に見慣れぬ三文字を書いた。 「? ……何ですか?」 「愼士朗──シンシロウ、自分の名前です」 「シンシロウ……こういう、お名前だったんですか!」  三輪、愼士朗(しんしろう)──だったらしい。 「む、難しい字ですね。あっ、ロウは普通の『郎』じゃなくて、右が『月』なんですね」 「そうです。よく間違われるんですが、よく気づきましたね。貴方はやはり、聡明な方だ」 「いや、日本国語の成績だけは、少し良かったんですよ。でも、漢字を覚えても使うことなくて!」  つい、はしゃいだ声を立ててしまった。  漢字を知っていたから三輪と楽しく会話できたのと、使う機会があったのが嬉しかったのだ。  このことで、後で思わぬことが起こるのだが──その後、もっと思わぬことが起きるということを、この時のカナタは、まったく知るはずもなかった……。
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