恋は電子とプラスチック

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恋は電子とプラスチック

 翌朝。  美雪はいつもどおりに駅に着き、電車に乗り込み、席に座った。今日は運よく、はしっこの席を取ることができた。  ただそれは、電車がいつもより、気持ち程度ではあるが空いているというのはあるだろう。  司の学校は今日から夏休みなのだ。単純に、彼と同じ学校の生徒はもう休みに入ってしまっていて、今日は電車に乗らないだろうし。ほかの学校ももう休みのところもあるのかもしれない。  快適ではあるが、手放しで喜びきれない気持ちを感じながら、美雪はスマホを取り出した。  そこには昨日の『本』をくっつけてあった。  今日は司に会わないだろうと思ってつけてきたものだ。見られるのはやはり、気恥ずかしいので。  スマホの横で揺れるそれを見て、機嫌を直すことにした。  いいじゃない、夏期講習とかの朝の電車で偶然会えるかもしれないし。  そうでなくても夏休み明けにはまた同じ電車なんだろうし。  それが偶然頼りであったり、だいぶ先のことになってしまったり、そういうことは……あまり考えないようにしよう、と思う。  スマホの読書アプリを開いた。新しく買った歌集を開く。司におすすめされたものだ。  それは若山牧水ではなかった。 『一握の砂』  石川啄木である。  ただ、美雪がスマホにつけた『幾山河』とまるで関係がないわけではない。  石川啄木は、若山牧水と交流があったらしいので。それもなかなか良好で深い友人関係だったそうだ。  それについてはまた詳しく調べてみたいと思う。文豪同士のそういう関係を調べ、知ることも面白いことだとまた楽しいことが増えた。  とりあえず今は、新しいこの歌集である。  最初のページからひとつひとつ、ゆっくり読んでいく。美雪が読む速度はだいぶ遅いし、それに色々と考えながら見ていくので、ページはなかなか進まなかった。  そして美雪はそれにだいぶ集中してしまっていたようで。 「……おはよう」  声をかけられるまで、その存在にまったく気付かなかった。  まず、声に驚愕した。それは今日、聞くはずのないものであったので。  ばっと顔を上げると、そこには声どおりの人物がいた。司がちょっと、気まずそうに立っている。  今、いつもの駅から乗ってきたところらしい。アナウンスがあって、すぐにぷしゅっと音を立ててドアが閉まったので。  電車は発車した。だんだん速度を上げていく。 「……どうしたの?」  美雪は尋ねた。司は初めて見る、私服を着ていた。シンプルな半袖シャツに、ジーンズだ。  その姿についつい見入ってしまった。制服姿もスマートで格好良かったが、スタイルの良さが強調されているような私服であった。  そして実のところ、その格好良さや新鮮さよりも、『プライベートな姿を見られた』ということに、この状況がよくわからないながら、胸が熱くなってしまったのである。 「いや、ちょっと手に入れたものがあってさ」  何故か司の言葉はキレが悪かった。彼らしくもない言い方だ。  手に入れたもの?  そんな言葉ではわかるはずがなく、美雪は首をかしげた。  また少しためらっていたらしい司だったが、ふと視線を別のところに向けた。それは美雪の手元。  そこには当たり前のようにスマホがあった。そして今は、一冊の『本』がくっついている。  しかし美雪はそれには気がつかなかった。この状況の謎にとらわれてしまっていて。  司がそれを見ていたのはほんの一、二秒であった。  すぐにポケットに手を入れてなにか、その『手に入れたもの』らしきものを取り出した。  美雪の前に差し出す。  やはり優しい手でつまんで。  それは二色の茶色で構成された表紙の『本』だった。ずいぶん地味な印象だ。  けれど美雪は数秒考えて、ひらめくように理解した。  この『本』は、きっと。 「今の美雪さんにちょうどいいかと思って」  美雪が『一握の砂』を買って読みはじめたこと。司はもちろん知っている。  そしてそのために、この『本』。おそらく『一握の砂』が今、ここにあるのだろう。 「良かったらもらってくれないかな」  司の言葉はやはり少々濁っていた。ためらいと、それから……決まりの悪さ? そういうものを美雪は感じた。 「えっ、いいの?」  どうしてくれるのかわからなかった。  いや、シンプルにとらえるなら、単純に司の言った通りだろう。確かに今の美雪にふさわしいような『本』だろうから。 「もらってよ」  今度はやや、強引だった。勢いのままに美雪はそれを受け取ってしまう。  『本』はまだ包装のビニールに入っていた。かさっと手の中で鳴った。 「その、……俺の好きな歌が載ってるからさ。持っててもらったら嬉しいと思ったんだ」  そして話は唐突に終わった。 「次は……────駅……」  流れたアナウンス。それは美雪にも、そして司にもなんの関係のない駅だった。大体、司が乗ってきた次の駅なのだ。まだ三、四分しか経っていないだろう。 「じゃ、俺は降りるな」 「えっ……?」  そんな駅で降りようなどと、意味がわからなかった。美雪はますますきょとんとしてしまう。 「感想。また聞かせてもらえたら嬉しい。……じゃ」  それだけ言って、司は本当にその駅で降りていってしまった。  美雪は手を振るどころではなかったし、司もこちらを見て、手を上げることもなかった。  一体なにがあったのだろう。  怒涛の展開に、美雪はしばらくぼうっとしていた。  この出来事の意味がよくわからない。  夏休みに入っている司がわざわざやってきたのもそうだし、『一握の砂』を手に入れたと言ったのもそうだし、そしてもちろん、これをくれたのも。  ただ、感じてはいた。  謎ではあるけれど、意味はあるのだろう。そんな無意味なことをするひとではないと、もうわかっていたので。読書している作品と、スマホにつける『本』。それをリンクさせるほどにこだわり屋なひとなのだから。  じゃあなんなんだろう。  美雪はもらった『一握の砂』をしばらく見つめていた。  しばし考えて、スマホに戻った。歌集になにかヒントがあるだろうと思ったので。  ひとつひとつ歌を見ながらページを繰っていく。  そして、ひとつに目を留めた。  それは歌集の中でも有名と言われている一首。  見た瞬間にわかった。  何故ならそこには、『自分』を示すような文字が一文字載っていたので。  やはらかに 積れる雪に 熱てる頬を 埋むるごとき 恋してみたし                             石川啄木
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