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「ただいまー!」
低くも朗らかな調子の声が聞こえる。
その声の主は、屈強な男で見たところ30代後半と言ったところだろうか。
彼は身体中に龍の鱗で拵えた鎧を纏い、腰には見た目に似合わず細長い剣を携えている。
武器と防具の隙間からは、以前の闘いで負ったであろう傷跡や火傷の跡が歩くたびに見え隠れしている。
最近じゃ草食系男子やメイク映えするような顔立ちの男が流行っているが、いつぞやの天変地異によって竜や魔物が住み着くようになってからは、むしろ、このようなガタイの良い兄ちゃんが好まれるのだ。
とか何とか考えているうちに、大層鍛え上げられた胸筋と上腕二頭筋が私の頭のすぐ傍まで来ていた。
驚く私をよそに、バスケットボールを掴むが如く私の頭の上に右手を載せ
「ただいま、サヤカちゃん。良い子にしてた?」とからかうのである。
私はすぐに手を払いのけ
「おかえりなさい。ですが、もう子供ではありません」と、この宿のスタッフらしからぬセリフで跳ね除けるのだった。
それくらいは許してほしい。
なぜなら、こんなやり取りが約半年以上、毎日続いているのだから。
そんなことも気に留めず、彼は「ワハハ」と豪快に笑いながらいつもどうり大浴場へと向かう。
宿の店主、つまりここでは私の叔母さんが切り盛りをしているのだが、毎日この光景を横目で見てはクスクス笑いを押し堪えているのである。
無論、笑っているのも見られているのも全て私は気づいている。
働かせてもらえるのはありがたいが、この恥ずかしさだけは何とかしてもらいたいものだ。
そもそも、齢17の女の子の頭を急に鷲掴みして子ども扱いするとは何たる無礼な事だろうか。
少しはデリカシーというものを学んで身に着けてから大人になりやがれってんだ。
憤りと恥じらいを堪える私に、今度は大浴場から豪快な声が飛んできた。
「サヤカちゃーん、ごめーん!タオル忘れたから部屋から取ってきて欲しーい!」
馬鹿か。
こっちはただでさえ忙しいっていうのに、まだ仕事を増やすつもりか。
しかも、彼が宿泊している部屋は2階の一番奥の部屋。
いま他に2階へ上がる用事がないもんだから尚更面倒だ。
私が行かなくちゃいけませんかと叔母さんに目配せをすると、今度はケラケラと笑っている。
この宿は陽気な人しかいないのだろうか。
仕方がない、行くとするか。
着物の裾を捲りながら、少し急な焦げ茶色が褪せた木目調の階段を1段1段上がっていく。
身勝手な男に振り回される苛立ちのせいで進むペースはどんどん上がっていく。
自分でも驚くぐらい早く階段を上り切り、一番奥の部屋に入り扉を閉めた時、1階から聞き馴染んだ声がする。
「タイガー!タイガー!ご飯の時間だよー!」
おかしいな、この宿にはタイガってお客さんは居なかったはず。
その馴染んだ声は何度もタイガって人に呼びかけながら、2階の方へと近づいてくる。
うるさいな。
そう感じるまでに呼び続けた声は階段を1段ずつ上がり、とうとう私がいる一番奥の部屋の前まで来た。
誰もがご存じのとうり、私の名前はサヤカであってタイガではない。
そもそも性別自体が異なるではないか。
全く失敬な。
それでも鳴り響く「タイガー!タイガー!」という声に気が滅入ってしまい、ノイローゼになりかけた私は耳に掌を当ててその場にうずくまった。
私はサヤカ。
タイガなんかじゃない。
違う。
私の名前はサヤカなんだ。
大丈夫。
私は“サヤカ”なんだ。
暫くして、鳴り響いていた声が止んだことに気づいた私は、そっと掌を両耳から外して顔を上げた。
するとそこには見覚えのある男の顔が映っていた。
暗くぼんやりと光るテレビの画面に映る、見覚えのある男の顔。
その顔の右下には小さい文字で“Now Loading”と表示されている。
そうか、私は。
いや、僕は。
僕はこうしていつもどうり階段を下りてリビングへ向かう。
半年前、高校3年生の夏からこの生活は続いている。
いったいいつまで続くのだろう。
窓の外を覗けば、雪が融けきりつつある。
きっと世間は卒業式の話題で持ちきりだろう。
僕は言えなかった。
「行って来ます」を。
母はきっと言いたかった。
「行ってらっしゃい」を。
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