第二幕「第二層にて ――遺作――」

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第二幕「第二層にて ――遺作――」

 あの愛しい武骨な手の再来は、ある日の明け方。驚きましたわ、私は劇場ではなく小さな広場に立っていて、周りは人で埋め尽くされていました――しかも地面に敷いた布の上、疲れた顔で眠る人々で! 日中、人の声が絶えないのも当然というものです。  お父様が私に向かって開きかけた口を、つぐんでしまいました。横になっていた男性に、足を掴まれていたのです。湖畔で子どもを腕に捕まらせていた彼でした。私に綺麗だと言ってくれた、あの子はどこに行ったのか、見当たりませんでしたが。 「爺さん、まだ諦めるのは早いよ。俺たち、助け合いには慣れてるだろ。森をもっと(ひら)けば、住むところだって」 「……すぐには無理だ。町の外は獣も出る。人手が要るが、今は町の中も同じだろう。それに君も知っているだろうが、わしはすっかり胸をやられていて、もう長くない。この像を完成させて、思い残すこともない。……だが、わしが自ら行ったとは、誰にも言わんでくれ。年寄りだろうと病人だろうと、明日を惜しむのが当然だ。皆生きるために、この島に移って来たんだからな」  私に尋ねるということが許されるなら、日が暮れるまでお父様を質問攻めにしたでしょう。この唇は絶えず微笑むだけ。開くことなどできない。初めてじれったく思いましたわ。覆いの中で不安に(さいな)まれていたときですら、誰かを呼び止めて尋ねたいなんて思わなかったのに。 「……おまえを舞台に立たせてやれずに、すまないな。でも聞き分けてくれ、今、家をなくして困っている人たちが、劇場にもこの広場にも、空いた場所にはどこにも溢れているんだ」  お父様がそう言って、広場の一角、建物がなく視界の開けた方を指しました。昇り始めた日に輝いたのは、最下層に溜まった霧――葡萄酒色の、霧。 「おまえを運び出したあの日、湖から変な霧が噴き出して、それに触れると動物も人間も、動かなくなってしまった。わしら、最下層に住んでいた者の家も、畜舎も浸かって全滅だ。第二層以上の皆が場所を譲ってくれてはいるが、霧は日に日に、ここへ迫ってきている」  あの穏やかな湖が、そんなひどいことをするとは思えません。ああ足が動くなら、私が確かめに行くのに――お父様の瞳のようなあの湖を、悪く思いたくはないですから。  そんな私を宥めるように、お父様が手を握ってくれました。そしてこの目を覗き込み、瞬きもせずこう言いました。 「この先、邪険にされても、もし破壊されたって、恨むんじゃないよ。多くの目に触れずとも、おまえの存在を、神様はご存知だ。神様は誰もを平等に、いつでも見守っていてくださるからな」  彼は本当に「諦めた」のでしょうか。手が震えていましたわ。あんなに確かに鑿と槌を握る手が。私を生み出してくれた手が……。  それでも敷布の間を真っ直ぐに、お父様は歩いて行きました。赤い霧の方、最下層に続く階段へ。白髪頭がひょこひょこ朝日にとけて、だんだん見えなくなりました。  お父様、目覚めを促す鐘が鳴ると、広場にいた皆や、朝食を届けに来たパン屋、海から戻ったという強面(こわもて)の漁師まで、たくさんの人が私を囲んで泣いたのです。あなたを止めた男性なんて、もっと前から泣き通しでした。なのにこの虚空へ差し伸べたままの右手も、鼓動もない胸に当てたままの左手も、誰かを撫で、抱きしめることには使えない。無力でした。  だから皆がまた私を布で覆ったとき、人ひとり座る空間を提供できると喜んだのです。体を砕く衝撃を覚悟しましたが、訪れたのはいつかのような振動と浮遊感。行き先は町の外でしょう。獣の牙より私の方が硬いでしょうから大丈夫。お父様、自己犠牲とは夜露のようにひんやりと、甘いものですね。
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