第三幕「第三層にて ――象徴――」

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第三幕「第三層にて ――象徴――」

 今度覆いを取り払うのは、獣の爪か牙のはずでした。それがどうでしょう、布は裂けることなく、むしろ恐る恐るといった様子で、そっと遠ざけられたのです。  頭上で鐘の音が正午を告げ、私は第三層、時計塔の真下に立っていることを知りました。周りは第二層より少し大きく見える広場で、やはり人が休むために布が敷いてありましたが、通路が広く設けられていました。後で分かったことですが、時計塔と周囲の建物は食物の貯蔵庫だったのです。それで私を見つめる人々のほとんどが、袋を担いだり、籠を提げたりしていたのですね。  彼らの真っ直ぐな視線に、歓迎されているやらいないやら。戸惑っていると、私の右腕の下で「布はちゃんと、たたむんだよ」と声がしました。見れば腰の曲がったお婆さんが! 失礼なことに、あんまり小さいので気づかなかったのです。慌てる私を見上げて、彼女は微笑みました。 「ようこそ、お嬢さん。大変な目にあったね。うちも寂しくなったところだったんだ。あんたにはできるだけ、長く居て欲しいねえ」 「そういや婆さん、旦那も息子もいなくちゃ、鐘を鳴らすのは一苦労だろう」  長い腕で私の覆いをたたんでいた長身の青年を睨む、お婆さんの眼光の鋭さ! 青年は慣れた様子で、肩を(すく)めていましたけどね。 「紐の引き方にはコツがあるんだ。さっきの鐘を聞いたろう、私は大丈夫さ!」  「私は大丈夫」――それはつい最近、私も使った言葉です。だからお婆さんが今どんな気持ちでいるのか、理解できる気がしました。あなたに寄り添います。そう伝えたかった。時が許せば、いつまでだって。  広場の奥に見渡せる下層の町には、まだ動く人影がありましたが、そのすぐ傍に、赤い霧がたなびいていました。そして目覚めの鐘の鳴るごとに、見える屋根が減っていくのです。  その光景は悲しくも、私の周りは賑やかで、あの温かいひと時といったら、この体は石じゃなく、燃える(たきぎ)で作られたのではと思えるほどでした。 「お嬢さん、あんたの肌は日に映えるなあ! この塩の方が白いけど、あんたの白さには温もりがある。聞いてくれよ、これは俺の作った塩なんだぜ。今は第二層から海岸へ出る通路が使えなくなって、塩田に行けないんだけどな!」  日に焼けた肩に塩の袋をいくつも積みながら、器用に握手してくれたのは、あのお婆さんに睨まれていた青年でした。 「ねえお姉さん、私、結婚が決まったの! この花冠、彼が作ってくれたのよ。あの霧に近い畑まで行ったのは褒められないけど、優しい人でしょう? お姉さんにも幸せのおすそ分け!」  満面の笑みを浮かべた娘さんが、私の手のひらに一輪の花を載せてくれました。 「お姉ちゃん、町の一番下から来たんでしょ? あの霧はどうして出てきたのか知ってる? ママはね、神様がすることだから、僕らには分からなくても、きっと意味があるだろうって言うんだ。でも僕には分かったのさ。神様は寂しいんだ。皆に神様の国へ来て遊ぼうって言ってるんだ。遊び相手がいないのは寂しい。僕の親友もこの間霧に触って、『神様の国』へ行っちゃったんだ。霧のことは憎たらしいけど、神様の気持ちも分かるから、許してやろうと思うんだよ」  饒舌(じょうぜつ)な少年が、私に抱き着いて戯れながら、そんな推測を聞かせてくれました。夕方、赤ん坊を抱いた母親に連れられて帰る間際、パンを一切れ「お(すそ)分け」してくれましたが、それは常連の小鳥のお腹に収まりました。  少年の言葉を聞いて、ふと不思議に思ったことがあります。なぜ誰も、「神様」がもたらしたという赤い霧が憎いと、叫ばないのでしょう。まだ季節も移ろわぬうちに、戦火から逃れてきたという人の命も、懸命に築き上げた家も畑も、急速に奪われているというのに。  第三層と最上層に残る人の多さは、食物庫からの搬出量が語っていました。対して運び入れられるものは、ほんの僅か。時計塔のお婆さんが「もともと蓄えが少なかったから、いけないねえ」と首を振ります。最上層の備蓄も尽きかけているようだと。  それを知る人は少なくなかったようです。晴れた日の雲の動きほどにゆっくり目立たずに、周りが静かになっていきました。一度過ぎ去った雲と同じ形の雲を見ることはない。それと同じように――私の前を去って、二度と現れない人が増えたのです。手を取り合った老夫婦、泣く弟を背負った幼い兄、男物の帽子で顔を隠した少女……。  一人の青年は長いこと私の目を見ずに、繊細そうな指先で、ただ私の右手の窪みをなぞっていました。いつかの娘さんがくれた花に触れていたのです。すっかり干からびていましたが、彼が望むなら手渡そうという、私の思いが伝わったのではないでしょう。けれど、つと手を離すと、彼は潤む瞳で一瞬私を見つめ、花を額に押し当てるようにして、歩いて行きました。広場から続く坂を下って(・・・)。  そして澄んだ空が美しい朝、時計塔のお婆さんが、青年たちを集めました。私には、「引っ越しだよ」と笑いかけて。 「あんたの生みの親の(じじい)とは古い付き合いだったがね、あいつは自分の口じゃなく、作品にものを話させるやつだ。あんたもやつの思いを良く表してる。そしてそれは、あの霧に脅かされ始めてから、町の皆が特に強く感じているのに、決して言えない一言(ひとこと)と同じなのさ。あんたが象徴になって、代弁してくれるから――皆、強がりを最後まで貫ける」  布を広げ、青年たちが丁寧に私を包んでくれました。口々に、お目にかかったことのない、私のお兄さんやお姉さんのことを話しながら。 「国にいたとき、墓地に立ててくれた像を見たか? 両手で顔を覆った天使の。俺、父さんが戦死したって聞いたとき、なぜか涙が出なかったんだけど、あの像を見たら泣けて、胸がすっきりしたんだ」 「公園にあった家族の像はさ、見てると何だか楽しくなって、母さんに叱られるまで遊んだこともあったなあ。たまに親父と一緒に行くとさ、『童心に帰れるな』とか言って、俺より張り切ってボール投げてたんだぜ」 「どれも置いてくるのが惜しかった」 「でも良いさ。今はこのお嬢さんがいる」  ……お父様。あなたはやっぱり、あの日嘘を()きましたね。  ああ、この町の誰も皆、優しすぎる。皆が皆のことを思い、必要以上に心を乱さないようにと、叶わない願いを沈黙の中に閉じ込めている。  だけど賢い人たちです。私は人の形でも、石であることに変わりはない。石が言葉を発することはない。口にできない思いを託す相手として、私ほどの適役が、ほかにいるでしょうか!  青年たちの手で運ばれながら、私は心穏やかでした。望まれていることと、自分自身が望むことがもう、明らかでしたから。
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