第四幕「最上層にて ――女優――」

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第四幕「最上層にて ――女優――」

 あなたさえ見ていてくだされば良いのです。町の一番上で演じるのですもの、誰もを平等に見守るというあなたに、見えないなんてことはないでしょうね、「神様」。  この最上層での思い出は、それほど多くありません。人々は変わらず優しく、少しずつ減って、今私の立つ広場まで霧が満ちてくる前に、皆階段を下りて行きました。それからも定時になると、霧から突き出た時計塔の鐘が鳴ったのですが、今日は朝から、鳥の羽ばたきと囀りのほか、町の空気を震わすものはないですね。  「神のミルクボウル」には――いいえ、ここから見渡す限りの世界には――葡萄酒が満ちてしまいました。すっかり何もかも浸ってしまって、ここに初めて来るものには、町があったことすら分からないかもしれません。けれど無人の物見台、煙の昇らないパン焼き窯、時を告げない時計塔――今見えるこれだけでも、人々の生活を想わせるものですね。そしてそれが、失われたものである、ということも。  でもね神様、この最上層に来て、誰かが言ったのです。「死臭がしない」と。私は死んだ人の体がどうなるかなど考えたこともなかったのですが、戦を経たこの町の人々は、知っていたのです。なるほど瑞々しく香り高い花でさえ、切られて日が経てば色褪せ、香りも変わっていくのですから、人間の身にも似たような変化が起こるのでしょう。それが感じられないと、誰かが気づいたのです。霧の中で倒れているはずの彼らが、変わってしまった気配はないと。  町の皆も、もちろん私も、赤い霧に触れたら終わり、死んでしまうものと思っていました。けれどそうでないのなら、霧の中で皆、眠っているだけなのではないか――そう考えるようになったのです。  人々が霧に足を踏み入れるときの恐怖は、拭い去られました。だから僅かな堅焼きパンに木の実と葡萄酒の夕食で、ついに食物が尽きたとき、皆迷わずに階段や坂へ向かいました。私にこう声をかけて。 「おやすみなさい、お嬢さん。良い夢を」  ですが私は眠りません。いつまでだって起きていますわ、神様、あなたに伝わるまでは。  あなたがどうして世界を眠らせてしまったのかは存じません。少年が言ったように、寂しがり屋さんなのかしら。皆、夢の中であなたと遊んでいるのかしら。だけど神様、理由がどうであれ、あなたのやり方はあんまりですわ。人々にとってあなたがどんな存在か、正直なところ、私には良く分かりません。ただあなたはとても偉い人だと思われているようですね。そんなに立派な、人の上に立つお方なら、皆の声をちゃんと聴いてあげてくださいな。  きっと世界を眠らせることで、あなたの望みは果たされたのでしょう。でもそれで、人々の願いは砕かれましたわ。私の大好きな湖が、悪者みたいになりましたわ。この最上層の住人には、島の外にも霧の出所があるって、湖がおかしいわけじゃないって分かったでしょうけど、混乱のさ中、誤解はほとんど解けませんでしたもの。  それに私、お父様に嘘を吐かせてしまいました。「思い残すことはない」なんて。お父様が私に込めた思いが、霧に脅かされる人々と同じだという、時計塔のお婆さんの言葉が本当なら――お父様は人生に満足したからではなく、私のために席を譲って、ただでさえ限られた空間に私が居づらくないように、最初の犠牲になったんじゃありませんか。何となくそれを察しながら、彼を止める術のなかった私の気持ち、あなたに分かって?  何もかも、あなたの身勝手のせい。神様、あなたのせいで、私も嘘を吐かなきゃいけないのです。ほかでもない、私自身に。この身に触れてくれた人々の温もりを憶えてはいても、やっぱり寂しいものは寂しいですわ。  パン焼き窯から立ち上る、子どもたちの笑顔を誘う香りを返してください。漁から帰った父親が髪から滴らせる潮の香り、母親と赤ん坊の肌の甘い香りも。青年の手に馴染み、胸を温め、そして娘さんの髪を飾った、花の香りも返してください。創作意欲の旺盛な彫刻家が槌を振るう、白い霧を浮かべた湖畔の清涼な香りも。命の香りを、皆が愛した世界の香りを!   ……神様が並外れて目の良い人でも、耳まで特別とは限らないわよね。そうね、どんなに私の内側だけで叫んだって、届くはずないわ。私は石の像。意図して沈黙を守った皆とは違う。いくら喋りたくても、私に声はない。  だから――表さなくては! この身一つで、お父様の、町の皆の願いを。私にはそれができるはず。お父様の作品であり、娘であり、そう、舞台を飾る女優たれと望まれたのですもの。そして人々の思いの象徴と呼ばれた私ですもの。この無言劇、きっと成功させてみせますわ。神様に皆の想い、伝えてみせますわ!  皆の願いが叶うとき、私の願いも叶う。そのときまで私は眠りませんし諦めません、皆のように、「強がり」を貫き通します。  神様、さあご覧になって。世界に満ちた葡萄酒を飲み干して、またミルクを注いで、新しくも懐かしい朝を迎えさせてくださいな。  私を見れば、聞こえるでしょう――「生きたい」と叫ぶ、彼らの声が。
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