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第一幕「最下層にて ――娘――」
あなたさえ見ていてくだされば良いのです。眠りの霧に足を入れながら、目を開いている者は、この町にたった一人、私だけ。それでも寂しくありませんわ。風の冷たさを和らげる、活発な人々の温もりこそ失われてしまっても、彼らがこの身に移した熱は、今でも消えずに残っていますから。
相変わらず変な眺めですわ。皆、ここを「神のミルクボウル」と呼んだのに。
すり鉢状に窪んだ山の地形に合わせて、四層の円を描くこの町はしばしば、最下層の湖や周囲の森から出る霧を湛える器と化すのです。当然、満ちるのは白。
それが今は一面、晩餐に供される葡萄酒の色だなんて。
私が最下層の湖のほとりで、一塊の大理石から掘り出された朝も、霧で真っ白でしたわ。細かい水の粒が肌をくすぐる、光源の曖昧な薄ら日の朝。鑿と槌を手にしたお父様が、苦笑しながら漠然と上を指しました。
「午後には、第三層の時計塔までちゃんと見えるんだが、仕方ない。おまえにはここのすぐ上、第二層の野外劇場を飾ってもらうよ。必死で町を整えて来たが、これからは娯楽も必要だ。仕事の合間に練習してる役者たちの代わりに、しばらくはおまえが舞台に立ってくれ。客席は今でも解放されている。そこで休む皆の目を楽しませて、いつか始まる劇に期待させてやるんだ。ゆくゆくは入口で目印になってもらうけどな」
お父様を例えて言えば、その朝の風景のような人。皺の寄った瞼から覗く瞳は湖水の、癖のある頭髪は霧の色に似てきらめくのです。そして話し声も、槌を振るってさえ、彼の立てる音は――いいえ、彼という存在のすべてが、あの日のまろやかな光のように、心地良いものでした。
私だけがそう感じたわけではありません。そうでなければ、あんな素直じゃなくて、人前では無口な人が、たくさんの人に慕われはしないでしょう。
「お爺さんすごいや、綺麗な人だね!」
「腕は鈍ってないなあ。この髪、襞、ほら、今まさに風に吹かれて揺れてるみたいだ」
「またあなたの彫刻が見られるなんてねえ」
最下層には畑や畜舎もあって、それを管理する農家の人々が同じ階層に住んでいました。彼らは代わるがわる私を見に来て、彫刻家としてのお父様の腕前と、私の容姿を褒めてくれたものです。お父様は顔を赤くして白髪頭を掻くばかり。彼の分まで、私はぐっと胸を張りましたわ。
「芸術家に芸術と向き合ってもらえる。何よりだ。戦から逃れてこの島に来たは良いが、開拓で手一杯だったからなあ」
腕に子どもをぶら下げた逞しい男性の呟きに、ようやくお父様が頷きました。小さな目でじっと、子どもの動きを見つめながら。
「……予定どおり、明日、これを劇場へ運んでもらいたい。皆、忙しいのにすまんな」
その日、結局私は霧の晴れるのを待つことなく、布に覆われてしまったのです。だからあれが、昼だったか夜だったか定かでないのですが――布越しにも分かる、お父様の節くれ立った手が優しく、私のまっすぐ前に伸ばした右腕を撫でてくれました。
「おまえの役割をもう一つ、伝え忘れていた。大したことじゃないんだが。できれば、わしの……。いやいい、頼むようなことじゃない、こんなことは……」
彼はなんて、優しすぎたことでしょう。自身が作った石像にさえ遠慮して。自分じゃ私の誇りになり得ないと、そんなことを本気で思ったのでしょうか? お願いされるまでもなく、何度も呼んでいたのですよ、お父様、お父様、お父様! ……あのすぐ赤くなるお顔を今見られたら、どんなに嬉しいでしょうねえ。
翌日、振動と浮遊感、威勢のいい声に包まれた移動の末、ようやく真っ直ぐ地面に立たせてもらうと、私の胸は高鳴りました。覆いが取れたらそこは舞台、お父様の名に恥じぬよう、立派な姿を見せなくては。そんな使命感を持って。
でも長い間――私には確かにそう思えたのですが――この目は塞がれたままでした。周りは絶えずざわめいていて、その正体が分からないのは言いようもなく不安でしたわ。布で隔てただけのすぐ傍で、好意とも悪意ともつかない囁きが波打っていて、子どもたちの無邪気な声だけが、時折高く響くのです。幕が上がるのを待つ役者は、あんな気持ちなのでしょうか。
思えば私は、まったくの無知でした。町にどれほど多くの人と出来事が存在するかを知らず、周りの人々が皆、私のことを喋っているのだと思って、一喜一憂していたのです。
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