第七話 それでも君だけは変わらない①

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第七話 それでも君だけは変わらない①

 腕時計のデジタル数字は午後二時半を示していた。札幌駅の地下にある店で購入したもので、千円もしない商品だった。  この三十年で価格の常識はかなり変わったが、恐ろしい事に慣れてみると当たり前に思えてくる。ポケットの携帯電話に至っては契約を結ぶ際に「ただで」もらった物だった。  健一は『れいんぼう』に赴こうとしていた。今からたずねて行けばちょうど、作業終了の時刻になるはずだった。前回、訪ねて行った際の記憶を頼りに住宅地に足を踏み入れると、前方の右角から身を寄せ合うようにして歩いてくる集団が現れた。利用者かな、と健一は思った。  集団とすれ違って間もなく、『れいんぼう』の建物が見えてきた。一戸建ての住宅で、築二十年くらいは経過していそうだった。玄関の前に来ると健一は立ち止まり、改めて時計を見た。二時五十分だった。  先ほどの集団は、早引けした利用者だったのだろう。意を決し、引き戸に手をかけようとした瞬間、向こうから勢いよく戸が開けられた。 「あ……」  思わず声が出た。姿を現したのは大柄な男性だった。男性はうさん臭そうに健一を見ると、すっと横を通り過ぎて行った。健一は、開け放たれた玄関をそっと覗き込んだ。板張りの床と大きなダイニングテーブル、そして奥に台所が見えた。健一の気配に気づいたのか、立ち仕事をしていた女性が振り返った。その顔を見た健一は思わず声を上げていた。 「恵……」  女性は、体育館で出会った恵によく似た女性だった。女性も健一に驚いたのか、虚を突かれたような表情を浮かべていた。 「どちらさまでしょうか?」 「あ……昨日、M体育館で会ったものです。蓑島さんの知り合いです」 「ああ、そういえば……蓑島さんに、会いに来られたんですか?」    女性は困惑したような表情を浮かべつつ、尋ねた。同時に横合いから男性がひょいと顔を出した。蓑島だった。まだ帰宅していなかったようだ。 「いえ、実はこちらに興味がわいたもので、見学させてほしいとお電話したらこの時間に来るようにと所長さんに言われて……」  女性は「そうでしたか」と言って表情を和らげた。上がるよう勧められ、健一は出されたスリッパに履き替えた。蓑島は怪訝そうな顔で上がり込む健一の様子を眺めていた。 「ええと、今、所長は買い物に出てるんですけど、私が案内してもよろしいですか?」  女性が言った。健一はもちろん、と返した。健一にとって願ってもない展開だった。  利用者が帰宅した後での説明という事だったので、健一は待つことにした。蓑島は帰り支度を始めていた。体育館での反応に納得していなかった健一は、蓑島に再び話しかけた。 「蓑島さん、やっぱり僕の事、思い出せませんか?」 「……八坂さん、でしたっけ?すみません、ご一緒だったことがあったかもしれませんが、なにぶん時間が経っていますし、私も病気になったりして記憶に自信がない物で……」  蓑島は力なく言った。演技のようには見えなかった。健一は軽い落胆を覚えながらも、蓑島の事はあきらめてもいいかという気持ちになりかけていた。  健一はキッチンで立ち働く恵似の女性の姿を漠然と眺めていた。ややすり足気味に歩く様子や、物事を考えるとき、ちょっと小首を傾げ、手を擦り合わせる様子など、どう見ても恵の癖をそのままなぞっているようにしか見えなかった。  仮に娘だったとしてもここまで仕草が同じになるものだろうか。健一は後ろ姿に向かって「恵なんだろう?」と呼びかけたくなる衝動を必死で堪えた。恵似の女性が昼食の残りをタッパーに詰め終えた時、背後で戸の開く音がした。見ると、蓑島がばつの悪そうな笑いを浮かべて立っていた。 「すみません、僕のラジオ、忘れてませんでしたか」  何気なく見まわすと、テーブルの上にそれらしき物体があった。手渡すと蓑島は何度も頭を下げ、礼を述べた。再び背を向けた蓑島に恵似の女性が「気を付けて」と声をかけた。  するとその途端、蓑島の動きが止まった。それから顔だけをこちらに向けた。  蓑島の目に一瞬、何とも言えぬ憐みのような色が浮かんだ。それから蓑島は引き戸をゆっくりと閉め、立ち去った。振り向くと、恵似の女性がこちらを向いて立っていた。 「それじゃ、施設の説明をさせてもらいますね。まず、この一階のリビング全体が、作業スペースになっていて、大体、お昼を挟んで四時間くらい軽作業をします」  女性はそういうと、段ボール箱をテーブルの下から引っ張り出した。詰め込まれていたのは未完成の歯磨きセットだった。どうやら企業が得意先に配る販売促進グッズらしい。
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