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第二話 どんぐり村 恵③
「どうもお客さん、気が付かなくてごめんなさい……わたしはここでまかないのボランティアをさせていただいている、中田笑子といいます」
「八坂と言います。急にお邪魔してしまってすみません」
健一が頭を下げると、笑子は「いいえ」と笑った。中年とはいっても仕草などにかわいらしさがあり、にこにこと笑っている表情はどこか恵と似ていないでもなかった。
「八坂さん、雪まつりはもうご覧になった?」
「ええ、先ほどさらっと見てきました。凄い迫力ですね。あれがすべて雪とは驚きです」
「辺り一面雪でびっくりしたでしょう。私たちはうんざりするくらい見てるけど」
施設のまかないをしているだけあって、笑子は人懐っこかった。
「そうだ、お昼の残りを冷蔵してあるんだけど、ホテルででも食べて」
そういうと笑子は冷蔵庫からスーパーの惣菜容器に入った餃子を出してきた。
「でも、ホテルには調理器がありませんし……」
「ああそうだわね、ごめんなさい。じゃあ、サラダはどうかしら」
切れ目なく喋る笑子にまいったなと思いかけた時、ヨウコがふいに「帰る」と口にした。
「だって、まだお母さんが来てないでしょ」
「いいの。駅で待ってる。もうお店は出てると思うから、すぐ来る」
引き留めようとする笑子を尻目に、ヨウコは素早く身支度をして裏口から姿を消した。
閉ざされた扉をぼんやり眺めていると、背後から笑子が「気にしないでね」と言った。
「あの子、八坂さんと恵さんが一緒に帰りやすいようにって、気を遣ったみたいね」
健一はあっと思った。ませた感じの子だとは思ったが、そういう気の回し方をするとは。
「まあ、なんとなく居づらかったんじゃないかしら。こういう時は止めても無駄だから」
外から戻ってきた恵は室内を見回し、ヨウコがいないことに気づくと、笑子の方を見た。
「ヨウコちゃん、帰ったのかしら」
「そう。あなたたちに気を遣ったみたいね」
「そういうところが、扱いづらいんだなあ」
恵はため息をつくと、健一の方を見た。健一は肩をすくめて見せるよりほかなかった。
「あの子はね、私の事を恨んでるのよ。小田切さんを取られちゃったから」
恵が不意に真顔で言った。なるほど、考えてみれば小さい頃から出入りしている子なら、家族も同様の小田切に思慕の念を抱いたとしてもおかしくない。
「不意に現れた見知らぬ女が、憧れのお兄さんを誘惑して東京に攫って行った、そしてあろうことか、死に至らしめてしまった……許せないのも、無理ないわよね」
健一は言葉がなかった。ただ「そこまでの事はないだろう」と言うしかなかった。
「さあ、私たちも帰りましょうか。ヨウコちゃんの好意を無にしちゃ悪いものね」
「恵ちゃん、昭さんのことは、思い詰めないほうがいいわよ。こういうことは時がちゃんと解決してくれるものよ。……ねえ、八坂さん」
「はあ……確かにそうでしょうね」
「恵ちゃんも、私くらいの年になったらきっとわかるわ。……さあ、もう閉めましょ。八坂さん、またいらしてくださいね」
「そうですね、機会があれば……」
「うふふ、きっとまたいらっしゃるわ。なんだかそういう気がする。『笑子さん、実は恵の気持ちがわからないんです。どうしたらいいでしょう』……なんていいながらね」
冗談めかしてそう言うと、笑子は豪快に笑って見せた。やがて二階から豊が下りてきて、「自分が施錠するから」と健一たちに先に出るよう促した。外に出ると、真っ暗な空から雪が切れ目なく舞い降りてきていた。
「晩御飯、どうするの?」
「さあ。ジンギスカンでも食べようかと思っていたんだけど」
「いいわね。この近くに、結構おいしいって評判の店があるわ。そこでいい?」
「ああ。案内、よろしく頼む」
健一が答えると、恵は先に立ってすたすたと歩き始めた。見知らぬ街の雑踏に吸い込まれそうになる背中を、健一は大切なものを眺めるような気持ちで追いかけた。
恵が恨まれていたという事は、おそらく俺も同罪なのだろうな。
ヨウコの厳しいまなざしを思い返しながら、健一は雪道をひたすら歩いた。それは、小田切がとうとう一度も帰ることがなかった故郷の風景でもあった。
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